【大橋未歩アナ】パラテコンドー田中光哉選手は「野蛮さ」にひかれ競技の道へ

 「大橋未歩のたまたまオリパラ!」

 9歳の時、2002年日韓W杯を見てサッカーを始めた。福岡選抜に選ばれたこともある。将来は高校サッカーの監督を夢見て、まずは教員になるべく、オーストラリアに語学留学。そこで人生が変わった。「自分の手を見て、ニコッと笑ってくれた。居心地の良さを感じた」

 田中光哉選手(ブリストル・マイヤーズスクイブ)は、生まれつき両腕の肘から先に障害がある。左手の指は3本、右手の指は1本だ。日本では、手を見て目を逸らされることもあった。それが異国では微笑みを返された。障害の受け止め方の違いを実感し、障害と改めて向き合ってみたいと思った。

 帰国後、東京都障害者スポーツ協会に就職。東京2020が決まったことも後押しし、イベントを企画、運営したりとパラスポーツの普及に取り組んでいた。そんな中、パラテコンドーが東京2020の新競技に決定。テコンドーとは韓国の国技で、蹴りや拳で攻撃と防御をする格闘技。田中選手はサッカー経験者であり「蹴り」をやってきたという理由で選手にならないかと勧誘された。

 初めてのパラテコンドー体験会。運悪くアバラに強烈なパンチがヒット!折れるほどの威力で、1カ月間呼吸するたびにアバラが痛んだ。この初体験がトラウマになるかと思いきや、田中選手は「補助器具なども使わず、ありのままの姿で『やるかやられるか』の野蛮さが面白いと思った」。選手になると腹を決めた。

 練習するための道場選びもユニークだ。勤務先から近かったからという理由で門を叩いたのが、今やパラテコンドー日本代表監督となった洪君錫(ホン・グンソク)師範率いる洪人館だった。「通いやすい」というバイト情報誌のような理由から、一緒に世界を目指すことになる師範に出会うのだから人生とはなんてドラマチックなのだろう。

 しかし師範の指導は生半可ではなかった。パラテコンドーの醍醐味である「蹴り」の練習をさせてもらえたのは入門して1カ月を過ぎてから。きつすぎて吐くのは当たり前という練習を耐えた先に、またも大きな出会いが田中選手を待ち受けていた。

 ◆大橋未歩(おおはし・みほ)1978年8月15日、神戸市出身。フリーアナウンサー。2002年入社のテレビ東京時代にアテネ、北京、ロンドン五輪を取材。18年にパラ卓球アンバサダー就任。19年から「東京2020パラリンピックの成功とバリアフリー推進に向けた懇談会」メンバー、パラ応援大使でも活躍。

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