苅谷俊介 映画「トラ・トラ・トラ!」の給料「全部競艇に」…高卒後、会社員から芸能界

 俳優、苅谷俊介(74)は昭和の大ヒットドラマ「西部警察」で独特の存在感を放った。しかし、そこに至る道は平坦ではなかった。高校卒業後、会社員になるも給料の4分の1を親に仕送りする生活に「食えない。もっと稼げる仕事を」と辞めた。目指したのが俳優。日米合作映画「トラ・トラ・トラ!」で助監督として関わり、大金を得たがギャンブルに使い果たしてしまった。金の使い方は豪快ながら、故渡哲也さんとは繊細な信頼関係でつながっていた。

 -芸能界に入る前後のお話を。1968(昭和43)年に東宝芸能学校を卒業されています。県立大分工業高校を卒業後、東京で就職を。

 いいえ、千葉の神戸製鋼系のアルミ箔(はく)を作る会社に就職しました。

 -働きながら俳優を目指した。

 僕らのころは高校を出て大学に進学する者と就職する者と半々くらいだったんです。高卒で月給が当時1万6000円くらいでした。そのうち4000円を親に仕送りしていたんです。自分の食い扶持を考えると何にも残らない。

 -懐に余裕がない。

 そうです。それで、お金がいっぱいもらえる職業ってなんだろうって考えて。役者がいいんじゃないか、俳優さんはすごい稼げるだろうと。そういう理由で会社を辞めました(引き笑い)。すぐになれるって思ったら大間違いでね。俳優の学校に行って芝居の勉強をして、食べられるようになるのに10年以上かかってます。甘いもんじゃなかった。

 -十代のころから俳優になってやろうということではなかった。

 じゃないですね。全然。食えないっていうのが最初でした。

 -もっと稼げる仕事をと。

 そのために色んなバイトもしました。そうするうちに日米合作映画「トラ!トラ!トラ!」と関わることになったんです。

 -助監督をされた。

 助監督というか、製作進行で入ったんです。黒澤組(黒澤明監督)が解散になり、僕は黒澤監督の絵コンテ資料を全部、持っていたんです。撮影を再開するというので監督が日活の舛田利雄さんになって、舛田さんから「助監督で来い」と連絡がありました。「やったことないです。製作進行ですから」「お前、資料持ってんだろ、すぐ来い」と。それで行きましたが僕は「番外助監督」です。大きな映画だから8人くらい助監督がいるんです。普通、多くても3人でしょ。カチンコを打つのは8番目の助監督で、その下に僕がいたので番外助監督です。

 -それでも貴重な体験。

 当時、高卒で月給1万6000円、大卒で2万円くらいです。僕の週給は3万5000円でした。週給ですよ。そのうえ食事代、宿代が別途出る。お金が有り余っちゃって。月給にすると20万は楽にいってました。

 -大卒初任給の10倍ほど。

 そうなんです。

 -今にすると200万円くらい!

 そうですよ。それで何したかっていうと撮影の現場が福岡県の芦屋ってとこなんです。そこでずっと暮らしてたんですけど、やることが何にもない。唯一、競艇があった(笑)。給料は全部、競艇に。全部なくなりました。はっはっはっは!

 -豪快ですね。その後、石原プロモーションに入り、石原邸の工事で遺跡が出てきた。それがきっかけで苅谷さんは考古学に夢中になった。

 1980年に裕次郎邸の新築工事が始まりました。そこは上神明(かみしんめい)遺跡の一角だったので、遺跡の上に家を建てることになるんです。鉄筋の3階なので基礎工事もしっかりしなきゃいけない。そうすると遺跡を破壊してしまうことになるので文化財保護法で事前調査が義務づけられているんです。西部警察の撮影をして帰りに遺跡の現場を見るという毎日でした。それが生涯学習として考古学の道に走ったひとつのきっかけです。

 -幼少期から考古学的なものに興味があったわけではない。

 全然違う。高校時代、学校に行きたくなくて授業をさぼって近くの発掘現場に行ったことはありますけど。映画館や喫茶店に行ったことがばれたら停学か退学になるから。

 -偶然に導かれるように渡哲也さんと出会い、考古学とも出合った。敬愛されている渡さんは苅谷さんのどういうところを気に入ってくれたのでしょう。

 分からないな…撮影の合間に、ロケ弁を食べて呼ばれるのはいつも僕なんです。「おいカリ、ちょっとやろうか」って。相撲をやるんです。ぜっっったいに勝てなかった。どんなに本気でやっても勝てなかった。強かったです。でもね、病気をされてから、「カリ、やろうか」「相撲ですか、やりましょう!」って組んだときにアニイじゃないんですよ。やせてしまって。組んだ瞬間に勝てると思った。だから僕は「ちょっとアニイ、調子悪いですわ」って自分からやめたんです。

 -渡さんに勝ちたくなかった。

 やったら僕が勝っちゃうから。僕が負けたら「わざと負けた」って言われる。だから「調子が悪い」ってことにしました。「なんでだよ、お前」「ちょっと足がおかしいんです」「なんだよ、お前」って言いながらアニイは分かってるんです。組んだときに「オレの体が以前とは違うと分かったな」って僕が理解したことが分かったんです。僕もアニイが分かったことが分かった。映画「さらば掟」のときから、1971年のときから5、6年の空白はあるんだけど約半世紀の付き合いで、分かり合えるというんですかね。どこが気に入ってくれたんですかって、もう、聞けないです。

〈WHO’S WHO〉

 苅谷俊介(かりや・しゅんすけ)本名・苅谷俊彦 1946(昭和21)年大分県生まれ。高校卒業後に一般の会社で働いた後、東宝芸能学校に入り68年3月卒業。映画「トラ・トラ・トラ」助監督を経て71年「さらば掟」で俳優デビュー。72年、石原プロモーションに役者兼スタッフで「転がり込む」。他の映画に「里見八犬伝」など。テレビドラマに「大都会」、「西部警察」、大河ドラマ「葵」など。82年から考古学・古代史研究にライフワークとして取り組む。著書に「まほろばの歌が聞こえる」(エイチアンドアイ社)など。日本考古学協会会員。京都橘大学客員教授。

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