SNSに囚われた女性と写真家を描く「人から見られないと自分は存在しない現代」

今やレタッチが仕事となってしまった写真館の男、SNSを生業とする元バレエダンサーの女性の出会いを描いた映画『写真の女』。国内外の50以上の国際映画祭に出品され、グランプリを含む15冠を獲得するなど注目を集めている作品を撮影したのは串田壮史監督だ。

これまでCMディレクターとして活躍するほか短編映画を撮り、初めて長編作品のメガホンを撮ったのが同作。大阪では「第七藝術劇場」で2月27日から公開がスタートしたなか、串田監督に訊いた。

取材・文/ミルクマン斉藤

「日本ではインディーズ映画って、正面から劇場に向かっても上映してもらえない」──僕は2020年の『大阪アジアン映画祭』で、ほとんど監督のプロフィールも知らない状態で拝見して興奮したのですが、なんでもイギリスで映画の勉強をされたんですって?

そうです。元々は大阪の出身で、地元の高校へ行って、大阪で2年間英語学科の大学に行ってたんですね。でも、英語学科って、多分4年勉強しても英語をしゃべれるようにならないんです(笑)。それに気付いてしまって、しゃべれるようになるにはこれは外国行くしかないな、と思って。

当時はすごくイギリスの映画がおもしろかったんですよ、『トレインスポッティング』とか『フル・モンティ』とか。そこで英語だけではなく、何かほかにも勉強した方がいいなと思って映画学科を探したんですね。

入学してみたらフィクションとかとは違って、例えば画面が明滅してるだけとか実験的な映像を作るところで、これはとんでもないところに来てしまったと(笑)。

──ああ、構造主義的な実験映画ですね。トニー・コンラッドとかポール・シャリッツとかマイクル・スノウとか、60~70年代くらいに流行った感じの。

そんな映像の学科にいたんで、郷に入れば郷に従えということで、僕もそんな実験的な映像を作っていましたね。

──僕も実は昔、8ミリフィルムでそちらの映像を作ってた人間なんですよ(笑)。なるほど、『写真の女』にもちょっとそんな匂いがありますよね。実際に編集のリズムと画だけで見せるというか。もちろん主人公の男に台詞がないということもありますけど。それとオール・アフレコの迫力。なにげない音や聞こえるはずのない音を拡大してみせるとか。そういうところに普通の劇映画としては収まりきらないところが多くある。

言葉が分からない人でもなんとなく怒っているのか楽しんでいるのか分かりますよね。例えば食事中だったらフォークを置くときの音の大きさとか、そういうところから感情って伝わるものだと思うんです。

だからこの映像ではそれを適切にコントロールしたかったので、全部アフレコにして、全部の音をあとで調整できるようにしました。

──なるほど。それはトーキー映画の本来の美点でもあるんですけどね。

そうですね。でも最近の映画とは逆の方向だと思うんですよ。例えばスマホで見られることを意識してか、しゃべってる人のクローズアップが多いんです。それに登場人物があまり多くなくて、すごく分かりやすく作ってると思うんです。

電車のなかで見てる人もいるから、音なんて出さずに見たり、音の演出というのが多くなくて。ですからこの映画の手法というのは、今だとほかの映画とちょっと違う手法だと思われるかもしれないですね。

──反対に、今映画でしか味わえないものを見せてやる、って意味も大きいと思います。むしろ、そっちの方が映画言語的には正解だと思うんですけどね。

映画言語というのは世界共通だと思うんですよね。ヴーンって言う低音が流れれば緊張感とか、チュンチュンって鳥が鳴けば翌日とか。その文法というのは世界共通なんで、すごく重要な感じだなと。

日本ではインディーズ映画って、正面から劇場に向かっても上映してもらえないんですね。一度、海外の映画祭で上映して、その間に評判を得ることによって映画館の人が上映してみようかなと思うものなので、まず外国の人が見ても分かるように作ろうと考えましたね。

──その意味では、少なくとも主人公のひとりである写真家は最後まで言葉を発さないので万人に捉えやすいですよね。僕が2020年の『大阪アジアン映画祭』で拝見したときには、すでに海外の映画祭を回られていたんですか?

あれがワールド・プレミアだったんです。完全に完成したのは大阪アジアンの締め切りの前の日だったんですよ(笑)。そのあと外国の映画祭はコロナのせいで全部オンラインになって。

でもこの作品についてはポジティブに働いたところが大きいです。結構すごいお金をつぎ込んで大きく戻さないといけない作品は映画祭に出すのを延期したんだけど、僕の作品はイケイケだったんで(笑)。例年よりも映画祭に入選しやすい年だったんですよ。

──いやいや、それは謙遜というもので、立派な受賞歴ですね。まず写真というか映像というか、そんなものの立ち位置が数年で劇的に変わってしまった。この映画の主人公はおそらく実家の仕事を継いだ二代目か三代目の写真館の主人ですけど、昔のように家族の肖像であるとか、冠婚葬祭であるとか、何かの記念、記憶のためのツールから、自分を他人にアピールするツールへと急速に変わってしまった。

そうですね。おっしゃるとおり写真というものがすごく変わったというのは、この10年20年の間にすごく感じているんですね。街の写真屋は次々と潰れたけど、写真が撮られる数は劇的に増えているんですよ。

聞いたところでは2020年の1年間で撮られた写真の数は、これまで人間の歴史のなかで撮られてきた写真の2倍なんだと。それぐらいみんながパシャパシャ撮るようになってるんですよ。

でも僕は、SNSで自分を見せるというのは日本人にすごくフィットしてると思ったんです。しかも加工修正するしてから見せるというのを礼儀のように感じてる人がいるんですね。みんなと同じような写真をあげなければいけないという。

──非現実的なまでに目を大きくしたりする加工ソフトなんかを使う人の気持ちが、正直僕はよく分からないんですけどね(笑)。

プリクラの時から続いてるんですよ。プリクラってアメリカとかで流行ってるの見たことなくって。やっぱりみんな同じ顔になるっていうのはすごく日本的というか。

同調性というんでしょうか、「人のことを考えましょう」とか、「友達をいっぱい作りましょう」とか、そんな学校教育の延長線上で受け入れられたと思うんですね。インスタグラムであそこまで加工修正するのも東アジア土着の、なんか村意識というのか、みんなと同じでいなければいけないとか。

「『自分らしく』なんて言葉は死語と言っていい」──この映画の写真家も、生計はほとんどレタッチ(コンピュータでの写真修正)に拠っちゃってる。まあ、写真芸術そのものも、生のまま提出するのは少なくなって、ほぼ加工工程込みのものになってますしね。写真学校でもその技術を教えるし。

そうです、今では多くの写真家がそうなってますね。僕が在籍する会社はピラミッドフィルムっていうんですけど、そこの会長が操上和美さんといって、今84才くらいでまだ現役なんですよ。

──あ、そうなんですね。大写真家さんじゃないですか。映画も撮ってられるけど(2008年の『ゼラチンシルバーLOVE』)。

1960年くらいから写真家やってるんですけど、写真は2回変わったって言ってて、1回目はデジタルになってモニターで写真が出るようになった。自分が撮ってる写真を自分以外の奴らが見てて「う~ん」とか「違うな」とか言ってる。

それがすごくストレスだったって。自由にできないわけですよね。そして2回目はレタッチですね。撮ったあとになんでもできるということは、撮るときは素材撮りでしかないんですよね。

ついには被写体である本人が、自分がこういう風に自分を見せたいというのに口を出すようになって、「このほくろ消して。これは活かして」とか。そうなると写真家は、どんどん周りから消費されていく自分を感じはじめますね。

──まさに『写真の女』の、お見合い写真のレタッチに偏執的になる女性のように。しかし、モノをありのままに撮るべき写真家であるはずの男も、膨張していく女の注文に粛々と荷担してるわけだから余計に事態は難しくなるわけで。でも、「他人を通してしか自分を愛せないの」って、ああもはっきり言われちゃうと(笑)。

でも、正しくそうだと思いますね。写真が人に見せるものになった以上、人から見られないと自分は存在しないというのは。ちょっと前まで「自分らしく」なんて言葉がありましたけど、今や「自分らしく」なんて言葉は死語と言っていいと僕は思ってるんで。

今、世の中で起こっていることは人から見られるということを意識せずにはいられないですね。リモート打ち合せでも自分で自分を見てて、他人を意識してる自分の顔が見える。

他人の目線を意識せざるを得ない。他人を通してしか自分が何者かというのを感じられないというのは、やっと人々が気付き始めたところだと思いますよ。

──ただ、この映画の女性は、自分から望んだものではないにしろ、身体に傷を負うことで同調性から外れたひとつの特殊性を得てしまいます。

これは視覚的な問題ですね。描くものを画で語らなければいけないので。心の傷は見えないわけで、それを感じさせるにしても何かビジュアル的なものが必要だから、ことさら傷を大きく作りましたね、あれがリアリズムかと言われたらそうじゃない。

──しかも特殊メイクに西村喜廣さん(日本屈指のホラー系特殊造形師)をわざわざ連れて来てるっていう(笑)。

あれは彼女の心の傷の比喩表現と捉えてもらって良いんですけど。男は心の傷を隠しているんですよね。だから他人には嘘をつき、触れないようにしておこうとしてるんです。

でも、この女性は男に傷を見せるんですよ、これが私よと。傷を隠さずに明かされて、その人の傷に触れることによって深い関係に陥ってしまう・・・というようなストーリーをかなり視覚的にやってみたわけです。

──傷へのフェティシズムみたいなところは大いにありますね。サディズム=マゾヒズムにも通じるような。

重なるところはあるんですよね。結局どっちがコントロールしているのかというと、サディストをコントロールしているのはマゾヒストだという。

──「奉仕するサディスト」というのはよくある相関関係ですから(笑)。そういう風なところは確かにあるし、交尾直後のオスをメスが食うカマキリをメタファーに持ってくるくだりも、抽象的ではあるけれども存外具体的なセックス・バトルの関係で。あのあたりも分かりやすいかもしれませんね、海外で。

シンボルを愚直に出してるので、その潔さを感じられたかもしれないですね。「今、これを見せるカットです」と明らかに分かる漫画的フレーミングでやりましたし。

──カマキリが動く音であるとか、ものを食う音であるとか、食われる音であるとか、音響が思いっ切りクローズアップされますしね。もちろんそんな音は作られたんでしょうね。

作りました(笑)。実際にカマキリの食べる音とかは聞こえないので。あれは僕たちがいろいろ食べて作りました。演じる方々にも「食う・食われる」を意識しろと。

「『砂の女』という映画があって、気付く人は気付くだろうと」──写真家を演じる永井秀樹さんは『青年団』の人なんですね多分主演は初めてだと思うんですけど、少なくとも映画ではなかなかの強烈な存在感ですね。お顔からして。

そうですね。僕は永井さんを和製ジェイムズ・ステュワートだと思っています。ジェイムズ・ステュワートが典型的なアメリカ人なのに対して、典型的な日本人。そういう人ってあまりいないんですよ。

何か個性を持ってたりするんですが、永井さんはあまりクセが強くないんですよね。パッと見たときに普通の人だなと感じさせるのはすごい才能だと思うんですけど。それはアメリカ人が見ようが、ドイツ人が見ようが普通の人なんですね。とても貴重な存在感ですね。

──うーん、普通の人か、って言われればちょっと違う気はするんですけど(笑)、原日本人感はありますね。90分間、ほとんど映されっぱなしだと嫌でも印象に残りますよね。しかも白ずくめで。

演じる彼はカメラを持ってる存在ですけど、実際の彼自身は常に撮られてるわけですね。常にカメラの注目を集める存在というのは、観客が常に彼を覗いている・観察しているという感覚になる。

観客は彼を覗きながら好奇心と支配欲を同時に満たす歓びがあるという風な気もしますね。昆虫観察も同じで、好奇心と支配欲を同時に満たすものだと思うので、もしかしたら映画の歓びというのはそこにあるんじゃないかと(笑)。

──ヒッチコックじゃないけど、彼は観察者ですからね。女性に対しても昆虫と同次元で観察してるという。でも少なくとも最初のほうは性欲の有無さえ分からない。ひょっとしたら、いや間違いなくあの歳まで童貞だったんじゃないかという。

(笑)。彼は童貞ですね。これは童貞映画です。

──あはは、やはり。『髪結いの亭主』はじめパトリス・ルコント映画の主人公たちを思い出させもするんだけど、ルコントの場合は女好き、セックス好きですからね、ほとんどが。

表の顔では高貴な顔をして、裏で女を買っている(笑)。

──ところで、主人公2人の名前がほんの1カットだけ出てきます。「平間械」と「岸今日子」。明らかにネーミングの意味が隠されてるように思うんですけど(笑)。

本当は名前なんてなくてもいいんですけどね(笑)。平間という苗字は平間至さんという写真家の方がいて。僕のなかでは「平間」といえば写真なんですよ。「荒木」といったらいろいろありますけど(笑)。

──あはは、そなんだ。「械」というのはもちろんメカですよね。

そうです。親が写真屋なんできっと機械好きだろうと。それに彼が森に行って、カマキリのメスがオスを食っているのを見て、なんか機能が戒められているというので機械の械にしてるんです。

岸今日子は『砂の女』(1964年)という映画があって、気付く人は気付くだろうと(笑)。

──あはは。監督、結構あけすけなんだ(笑)。岸田今日子から「田」を取っただけ。

『写真の女』なんてタイトルにした時点で、もうそこは隠しようがないです。『カメラを持つ男』なんてタイトルにしたら隠そうとしてるなと思うんですけど、明らかに『砂の女』に影響を受けてますよと。

──なるほど、分かりやすいですね。確かに『砂の女』的。男女の役割は逆転気味ですけど。

『砂の女』というのは、(岸田今日子演じる)女の家に(岡田英治演じる)男が転がり込んで。

──女蟻地獄ですよね。あっちは昆虫採集に行った男で、こっちは昆虫撮影に行った男で。

こっちは男の家に女がやってくるんですけどね。『砂の女』の岸田今日子はすごくシンプルなんですよ。毎日砂を掻いて、水を飲んで、飯を食って生きている。そういう単純さのシンボルとして描かれているような気がするんです。

そこに男が、社会的な運転免許証とか戸籍謄本とか持ち込んでくるけれど、そういうのがなくても俺は生きているということを感じさせるという映画。

──それを逆転したところもあるけれど、『写真の女』は単にそういうわけでもないですよね。

そうですね。『写真の女』はそれをひっくり返したような映画で、男が女の複雑さに惹かれていくんですね。自分が何者かということが、(インスタグラムで)人から見られないと確信できない。

でも私を見ているという人は匿名の群衆で、それが本当に実在するかどうかは分からない。そもそも自分がそうした曖昧なものの上に立っている。だから女性のキャラクターに大きな違いがあると思います。今はきっと男女間のパワーバランスも変わっていますから、それを現代的に描いてみたんですね。

──ところで、監督はCMの演出もやってられるんですか?

はい、普段はほとんど。

──CMは短い秒数で情報量を入れないといけないぶん、かえってサイレント映画的というか、言語的ではない要素が沢山あると思うんですけれども。

CMはとっても物事を記号的に表現しようとするんですね。例えばジュースのCM。とりあえずはジュースをおいしそうに見せないといけないので、ジュースをおいしいとはどういうことかと考えていくと、夏の暑い日に喉が渇いてて、喉がからからの時に飲むのが一番おいしい。

それはだれの記憶にもあると思うから、それを表現しようとするんです。太陽がギラギラ照ってて、役者の顔に水をいっぱい吹き付けて、判りやすく喉をフレームの真ん中にフレームインしてぐっと飲む。1秒のなかに人の記憶を呼び起こすような風景が全部詰まってるんですよね。

背景もそうだし、フレーミングもそうだし、そういう物事を記号的に2~3秒見ただけでそのジュースのおいしさを表現する技術はCMはトップクラスだと思いますね。

──でもその技術こそが説明過多に見えてしまうこともあるでしょ?

そうなんです。そういう技術がCMで身についているからこそ、それが押しつけがましくならないようにするほうが実は難しいような気がしましたね。結構CMディレクターが映画作ると分かりやすすぎるんですよ。

映画としての歓びが無くなっちゃうんですね。想像する余地がなくなって、映画を見終わったあと、ご飯でも食べながら語れないんですよね。その塩梅は気をつけました。

──スタッフさんはあまり見覚えのない方ばかりなんですけど、CMでのチームなんですか?

そうです。西村喜廣さんだけが普段から映画やってる人で、非常に教えてもらいました。制作段階から、作ったあとどうして公開すればいいんだろうと思って。そしたら「自分で電話かけたらいいんだよ」とか。

──あの人もどちらかというとインディペンデントに近い映画作りをしてるから。

西村さん、実は元CM制作会社出身で、それを辞めて映画業界に入ったたくましい人なんです。僕が映画業界に行って思うのは、スポンサーとか、タレント事務所とか、プロデューサーからいろいろ言われてもキレない技術がある(笑)。そう言う意味では忍耐強い。

──責められ強い(笑)。

お仕事だから仕方ないんですけれども、自分がひとつヒット作を作っちゃうと、みんな同じようなのをやってくれと依頼される。でも型にはめられるとさすがに嫌だなと思うんですよ。

そう思いつつも自分を壊したくないっていう気もあるんですね。せっかく相手が好意を持って来てくれるわけだから。

──でもお仕事なんだから、それは仕方ないですよね。仕事が来ないよりずっと良いですしね(笑)。でも個人の生き方として、人の求めるようなものにならないといけないというのは窮屈極まりないような。それこそ私の存在意義はなんなんだと。ひとつ、そこからの解放を描いている訳ですもんね、この映画は。

解放とも言えますし、一人だけに見て欲しいからその人を大事にするっていうね。

──ある意味、自ら囚われの身になる、っていうようなね。それこそ『砂の女』のように。

解放とも言えるし、強烈な束縛とも言えるし。

──結局、谷崎潤一郎的なマゾヒズム愛になるわけですかね。メスに食われるカマキリに官能の頂点を感じる童貞男のお話は。

(Lmaga.jp)

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