【野球】ブレーク前の阪神・能見が気にかけていたスポーツ紙の記事とは
以前、能見に冗談交じりでよく言われたことがある。「今日も悪いこと書いてたな(笑)」。例えばチームが連敗したり苦しい時期は、紙面が後ろ向きな記事で埋まってしまったりする。それを指摘されるわけだが、そこからも分かるように、毎日スポーツ紙をチェックする選手だった。
11日は阪神の今季最終戦であり、能見の阪神での最後のマウンドだった。試合後、場内を一周してファンにあいさつする場が設けられたのも、築いてきたキャリアや人望がゆえだろう。ただ、生え抜き16年というタテジマ人生も順風満帆だったわけではない。
1軍に定着してブレークしたのは、13勝を挙げた入団5年目の09年から。そこまでの4年間は先発と中継ぎを繰り返すような形で10勝9敗11ホールドという数字だった。そんな、まだ思うような成績を残しきれていなかった時期の、特に自身の登板翌日に欠かさない習慣があった。スポーツ紙に目を通し、当時はまだ現役だった矢野監督のコメントを探したという。
「僕は頑固で、直接言われたりするとへこむところがあって。矢野さんはそういう僕の性格に気をつかってくれていたので。だから、矢野さんが新聞を通じて僕のことを話してくれているのを読んでましたね」
自分の投球をどのように感じ、どう話してくれているのか。投手の気持ちを尊重したリードをする「矢野さん」の思いを新聞を通して感じ、応えようともがいた。もちろん、新聞の記事だけでなく直接かけられた言葉もある。「『殻を破るのは自分や』とは言われてましたからね」。苦しい時も、そういった支えがあったからこそ乗り越えられた。ブレーク後、阪神の「エース」と呼ばれ、球界を代表する左腕にまで飛躍を遂げたのは、周知のことだ。
最終戦の試合後、矢野監督は「能見なんかは背中で引っ張っていってくれた。そういうもので投手陣に対して、残していってくれたというのもしっかりあるんで」と話していた。立場は変わっても、2人の絆は変わらないだろう。来年はチームとして、能見を含めて他の退団した選手らが残したものと共に、戦う1年にもなる。(デイリースポーツ・道辻 歩)