【野球】“投手では使えない”で「覚悟」糸井がつかんだ史上31人目の勲章

8回、二盗を決め通算300盗塁を達成した糸井(撮影・山口登)
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 二塁に到達すると、すぐさま体を反転させた。左拳を三塁ベンチに向ける。視線の先に歓喜に沸く後輩たちの姿があった。阪神・糸井嘉男外野手が11日、広島戦(マツダスタジアム)の八回、今季初盗塁を決め、通算300盗塁の大台に到達した。

 「みんなが喜んでくれて、それが一番の思い出になった。うれしいですね。勝ち試合にできて、本当によかったです」

 2007年9月10日のロッテ戦(千葉マリン)でプロ初盗塁を記録し、これで15年連続盗塁。オリックスに在籍した2016年には、シーズン53盗塁で盗塁王にも輝いた男に、また1つ勲章が加わった。

 40歳1カ月、プロ野球史上31人目の偉業。1999年に37歳3カ月で到達した秋山幸二(ダイエー)の最年長記録を大幅に更新した。人は「超人」と呼ぶ。だが、走攻守で第一線を走ってきた男の技術を裏打ちしてきたのは、野球への情熱と、不断の努力に他ならない。

 逆境に立ち向かい続けた1年に、自然と若いころの記憶がよみがえってくる。振り返れば夢をかなえるまで、順風満帆だったわけじゃない。

 将来を嘱望されながら、近大入学直後に右肩を手術した。「終わった、もう野球を辞めようとも思った」。失意のまま手術室に向かう途中、麻酔でもうろうとする中で父の声が聞こえた。「先生、この子はプロに行く子です。もう一度、投げさせてください。先生、お願いします」。何度も、何度も繰り返す言葉が今でも頭から離れない。「意識が遠のく中でもハッキリと覚えている。絶対にプロに行かないといけないと思った」。アルプス席を見上げると2人で夢見た日を思い出す。

 「超人」-。糸井の代名詞として広く浸透した言葉でもある。ただ、いまや日本を代表するスラッガーも、崖っぷちからの打者スタートだった。投手として自由獲得枠で日本ハムに入団。だが、制球難に苦しむなど1軍登板も果たせず、3年目、高田繁GM(当時)に呼ばれた。

 「糸井くん、もうピッチャーでは使えないよって、笑顔で言われてね。野手をやってみないかと。1週間あげるから、これからどうするか考えなさいって言われたよ」

 迷いはなかった。ただ、時間もなかった。「『野手なら2、3年見てくれますか?』って聞いたら、見ないと言われて」。投手から野手へのコンバートを決めた2006年、日本ハムの外野は稲葉篤紀、新庄剛、坪井智哉、森本稀哲…。そこには12球団屈指の顔ぶれがそろっていた。

 大村巌2軍打撃コーチ(当時、現DeNA2軍打撃コーチ)が専属コーチになり、1日、1箱約200球のカゴ10箱以上は打った。両手のマメがつぶれ、汁が出る。それが固まるとバットが離れない。「手を開くと握れなくなるから、ずっとバットを持ってたよ」。夜、つぶれたマメを火であぶって固めた。痛みを少しでも和らげるために、バットを握ったまま眠る。朝起きて、そのままグラウンドに出る。そんな毎日だった。「超人」は不断の努力で手にした勲章でもある。

 一昨年、2月のキャンプ中のことだ。練習試合が行われた宜野座球場で、古巣・日本ハムの関係者に呼ばれた。「実はコンバートを考えている選手がいるんだ。何が一番、必要だ?」。投手では使えない-屈辱的な一言からのスタートだった男が、熱く伝えたのは「覚悟」だった。

 「一番は未練を完全に断ち切ること。打者で生きるんだ、という覚悟ですかね。それさえあれば、あとは僕に任せてください」

 厳しいプロの世界で生き抜くため、バット1本に全てを懸けてきた野球人生だ。チーム最年長として迎えた2021年シーズン。プロ18年目の開幕戦は、例年とは違う景色が広がった。26歳だった2008年から始まった開幕スタメンの連続記録は、日本ハム、オリックス、阪神と3球団をまたいで続いていたが、ついに13年で終止符を打った。

 今季は佐藤輝明らの台頭もあって、ベンチにいる時間が多くなった。それでも最前列に立ち、戻ってくる仲間をねぎらい、笑顔で鼓舞し、勝利を喜ぶ姿がある。必要とされる姿を探しているようだった。限られた出場機会の中でも、スタメン出場で3戦連続本塁打を記録するなど、ここぞの存在感が際立っている。「俺はFAできたから。チームを勝たせないといけない責任がある」。阪神に移籍した当初から、常に勝つことに全力だった。7月には節目の40歳を迎えた。超人、健在-。残り34試合、V戦線を走るチームで一層、その輝きは増していく。(デイリースポーツ・田中政行)

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