【野球】センバツV投手の八木沢荘六さんが理事長を引き受けた理由 5月には全国で大イベント
ロッテが千葉に移籍した1992年に監督を務めた八木沢荘六さん(80)は、日本プロ野球OBクラブの理事長を務めている。作新学院高時代はエースとしてセンバツ優勝投手となったが、史上初の春夏連覇を達成した夏の甲子園では予期せぬ事態で登板できなかった。ロッテでは抜群の制球力を武器に史上13人目の完全試合を達成。引退後は指導者として7球団で手腕を発揮してきた。劇的で起伏に富んだ、その野球人生に迫る。
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現役時代、チームメートから「ロクさん」と呼ばれ慕われていた八木沢さんが、日本プロ野球OBクラブ(公益社団法人全国野球振興会)の理事長に就任して今年で11年になる。
野球の普及、振興への貢献を掲げる同クラブには、約1300人の元プロ野球選手が所属している。
「理事長に就任したのは2014年の2月12日かな。前理事長の森徹さんから言われて。早稲田の大先輩なんですよ。入院されていてお見舞いに何度か行った時に、俺の後をやってくれと。ずっと断ってたんですけど、分かりました、やりますと伝えて。その2日後の2月6日に亡くなられたんです」
中日、大洋、東京(現ロッテ)で外野手として活躍した先輩の森さんからバトンを引き継いだ当時を思い起こした。
80歳。「忘れっぽくなったし、歩くのも遅くなった」と言うが、10年前の日付もしっかりと記憶されている。
組織の現状を尋ねると「難しいね。僕はここ(都内の事務所)にいるんだけど、1300人の会員は全国に広がっていて、みんなで集まって何かをするというのはないんですよ。公益社団法人だから、お金を貯めようっていうわけじゃないし、なかなか厳しい」と苦笑い。
5月3日を皮切りに「全国少年少女野球教室」が開催されるとあり、「今年ももうすぐ始まるんですよ。一番大きなイベントです。OBが7、8人ずつ自分の古里とか全国に行って、子どもたちと一緒に野球教室をやるわけです」とアピールした。
八木沢さん自身、教えることに情熱を注いできた。13年の現役生活を送ったが、晩年からはコーチ兼任に。引退後は指導者として7球団に在籍し手腕を発揮してきた。
黄金期の西武では11年間にわたって投手コーチを務め、7度の日本一に貢献。ロッテ監督時代には伊良部秀輝投手のスピードを引き出し、阪神投手コーチとしては、野村克也監督の求めに応えて新庄剛志外野手の二刀流挑戦をサポート。阪神からメジャーに挑戦した井川慶投手には宝刀チェンジアップを伝授した。
NPBだけでなく社会人野球の東京ガス、BCリーグ群馬でもコーチを務めた。「それが最後ですね。67歳でした。そこまでユニホームを着てます」。およそ30年の指導者歴を振り返った。
その教えはシンプルだ。
「上半身を上手に使うこと。(利き)手と体の上体。それと(右投手は)左腕が大切。左腕は後ろに引かず、グラブを自分の目で見えるところに置く。左側に必ず倒して投げる。あとはプレート板を蹴らない。これで上等なんです。余計なことは何もないんですよ」
体力の衰えを口にしながらも、情熱は衰えてはいない。取材中、八木沢さんは何度も立ち上がり、理事長室に飾ってあったボールを手にして投球フォームを“実演”してみせた。
監督業とコーチ業。両方を経験した八木沢さんは、どちらが向いていると考えているのだろうか。そんな問いをぶつけると「やっぱりコーチの方がいいですよ。監督でも口に出しても構わないですけど、それだけにかかっていけないから」
そして言葉を続けた。
「おまえはこうなってる、もうちょっとこうしようって、そういう眼力があったんだと思うんです。1球見たら分かりますから。キャッチボールをやってる姿、1球で分かります」と自身の強みを分析した。
身長172センチ。小柄ながら驚異的なスタミナと制球力を駆使して、金字塔を打ち立ててきた。作新学院高3年時にはエースとしてセンバツを制覇。チームは夏も頂点に立ち、史上初の春夏連覇を達成したが、八木沢さんはよもやの赤痢感染で隔離される悲哀を味わった。3度の優勝を飾った早大を経てのプロ入り後は、完全試合も達成。近鉄のチャーリー・マニエル外野手にアゴの複雑骨折を負わせた顔面死球はセンセーショナルに取り上げられた。
起伏に富んだ野球人生を「まあ、面白かったですね」と穏やかに語った八木沢さん。その歩みをたどっていきたい。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇八木沢荘六(やぎさわ・そうろく)1944年12月1日生まれ。栃木県出身。作新学院、早大を経て、66年のドラフト1位で東京(現ロッテ)入団。73年にプロ野球史上13人目の完全試合を達成、最高勝率・875を記録した。在籍13年で394試合に登板。71勝66敗8セーブ。防御率3・32。92年から94年途中までロッテ監督。ロッテを含め、西武、横浜、巨人、阪神、オリックス、ヤクルトと7球団のコーチを歴任した。公益社団法人全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ)理事長。





