【野球】長嶋監督からの仰天提案「うちの前の土地が空いてるから、おまえ買え」高級住宅地購入勧められ困惑した小俣進さん
長嶋茂雄氏の専属広報を長く務めた小俣進さん(74)は広島、巨人、ロッテ、日本ハムで現役時代を過ごしたサウスポーだ。入団3年目の1975年オフに巨人に交換トレードとなり長嶋監督が指揮するチームの一員となった。少年時代からあこがれていた人は、出合ってすぐに突拍子もない言動で小俣さんを驚かせた。そんな指揮官の配慮でつかんだプロ初勝利、心に染みた言葉とは。
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11月末にトレードを通告された小俣さんは、翌年1月の多摩川グラウンドでの自主トレ中に初めて長嶋監督と対面した。視察に訪れた指揮官に移籍のあいさつをすると「がんばれよ」と声をかけられた。
その出会いから2週間ほどたった1月末。田園調布の長嶋邸の庭ではキャンプインを前に1軍選手を集めて決起集会が開催されていた。
「自主トレが終わった日に長嶋さんの家で1軍キャンプに行くメンバーが呼ばれてバーベキューをやってくれたんです。庭にすし屋さんや焼き鳥屋さんが来てね」
初参加となった小俣さんは、その席で長嶋監督から突拍子もない提案をされた。
「“小俣、うちの前の土地が空いてるから、おまえ買え。俺が世話してやるから”って突然言われて。すごいこと言うなと思ってびっくりした」
広島から移籍して年俸は多少アップしていたという。「確か300万ぐらいだったかな。それで200坪くらいの田園調布の何億っていう物件を買えと言われても、買えないよね。監督は、俺の給料を分かってるのかなあって思いましたね」
瀟洒な邸宅が並ぶ都内有数の高級住宅街。1軍での実績がとぼしい若手投手には手の届かない買い物だった。
あっけにとられてその時は何も言えなかったが、今では長嶋監督の真意をこう捉えている。
「1軍で頑張れば買えるぞ、だから頑張れよっていうことだったんだろうなって思う」
広島に「小俣をくれ」とトレードを申し入れた長嶋監督の親心、期待の表れだったのだろう。
移籍1年目の76年、小俣さんは1度だけ1軍に呼ばれてベンチ入りしたが、登板機会がないまま2軍に降格。長嶋監督の初優勝に貢献することはできなかった。
翌年は1軍戦力として左腕を振り続けた。77年6月30日の阪神戦(後楽園)でプロ5年目にして待望の初勝利を挙げる。
四回2死から先発の堀内恒夫投手を救援した背番号46はマウンドで躍動した。制球は安定しフォークは落ちた。試合終了まで5回3分の1を無失点。79球での勝利だった。翌日のスポーツ各紙の1面を小俣さんは飾った。
「最後の打者は掛布(雅之選手)だったんだけど、セカンドゴロかなんかを打ってくれた。ちょうどこれがシーズンの折り返し65試合目の試合だった。思い出深いね」
あとアウト1つで勝利投手の権利をつかむ先発投手に代わって起用された背景には、直前に甲子園で行われた阪神戦での好投があった。「負け試合で3回を投げて9人で抑えていた。いいピッチングをしたからチャンスをくれたんじゃないかな」と振り返る。
起用に応えて初勝利をつかんだ小俣さんに長嶋監督は「江夏(豊投手)がデビューしたときのピッチングを思い出したよ」と最大級の賛辞を贈り、ライト、新浦壽夫投手に続く左投手の出現を喜んだ。
「監督はほめ上手だから。たいしたことはなかったんだけど、球は速かったからね。監督は江夏さんと対戦してるからね」
伝説の左腕を引き合いに出されたことに小俣さんは照れ笑いを浮かべた。
その年の9月23日、2位ヤクルトが広島に敗れ、巨人はV2を達成した。無人の後楽園球場に集まった選手らによって長嶋監督は宙に舞った。
この年、小俣さんは30試合に登板し3勝0敗1セーブ。長嶋巨人の連覇を支える存在となった。優勝決定を伝える紙面には長嶋監督のこんな言葉が残されている。
「後半になって主力投手陣が苦境のとき西本や小俣の若い力が連敗を止めてくれましたよ」-。(デイリースポーツ・若林みどり)
◇小俣進(おまた・すすむ)1951年8月18日生まれ。神奈川県出身。藤沢商(現藤沢翔陵)から日本コロムビア、大昭和製紙富士を経て72年度のドラフト5位で広島に入団。巨人で貴重な左の中継ぎとして活躍した。ロッテ時代に初完投初完封勝利をマーク。現役最終年は日本ハムに在籍。プロ通算13年で174試合に登板16勝18敗2セーブ、防御率4・73。引退後はロッテ、巨人の打撃投手を経て、長嶋茂雄監督の専属広報、終身名誉監督付き総務部主任などを務めた。





