【野球】「泣きながら練習した」長嶋巨人、伝説の伊東キャンプ以前にあった“地獄の”多摩川秋季練習 西本、定岡投手らとしごかれた小俣さん
長嶋茂雄さんの専属広報だった小俣進さん(74)は広島、巨人、ロッテなどで13年の現役生活を送った。長嶋巨人2度目の優勝となった1977年には貴重な中継ぎ左腕として活躍したが、オフに待っていたのは地獄の特訓だった。伝説として語り継がれる79年の地獄の伊東キャンプ以前に、長嶋監督の指示のもと繰り広げられていた地獄の多摩川秋季キャンプ-。西本聖投手、定岡正二投手らと少数でしごかれた当時を振り返った。
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監督初年度で球団史上初の最下位に沈んだ長嶋巨人は、翌76年に初優勝を遂げると、77年にはV2を達成した。
プロ5年目の小俣さんは、その年にキャリアハイの30試合に登板し3勝0敗1Sをマーク。8月29日のヤクルト戦では七回途中を2失点で先発初勝利を挙げた。この試合は小俣-西本投手の“フレッシュコンビ”が継投しての勝利だった。
「西本が抑えてくれて先発で勝ってたんだ。すごいな」
試合後に西本さんと笑顔で握手する白黒写真を見た小俣さんは、一緒に多摩川グラウンドでしごき抜かれた秋季練習の記憶を呼び起こしていた。
「この年のシーズンオフだったかな。多摩川で泣きながら練習した」
巨人は連覇を遂げたものの、日本シリーズでは阪急に2年連続敗退。シリーズ後にコーチ陣と秋季練習プランを話し合った長嶋監督は「ペナントレースではぶっちぎったにもかかわらず日本シリーズに敗れた。この失敗を教訓に秋季練習をするが、マンツーマンで英才教育をしていく」と若手の徹底強化を宣言したのだ。
小俣さんは西本、定岡、藤城和明投手とともに投手の強化メンバーに指名され、杉下茂投手コーチ、木戸美摸投手コーチ補佐から徹底的にしごかれた。野手の強化メンバーは山本功児、淡口憲治、笠間雄二、松本匡史、篠塚利夫(和典)の5選手だった。
「10時から夕方の5時まで7時間、4人にコーチ2人がつきっきり、休憩なしで練習した。ノックを1時間受けて、バント処理を1時間、ウエートトレを1時間、ロングランを1時間といった感じでね。休みは1週間に1回だけだったかな。練習がキツくて、吐きそうになるんだけど、当時はグラウンドキーパーの人も厳しくて“そんな所で吐くな!外に行け!”って怒られてね」
4投手の中で小俣さんは最年長、残る3人は5歳下だった。
「定岡も西本も同い年で足が速いから、競い合ってすごい飛ばす。一生懸命ついていったけど。あいつらはノックなんかを受けるのもうまくて、かっこよくて。俺はもう不器用だし、左投げになって何年もたってない人間だから、動きがぎくしゃくして下手で。ノッカーはおもしろがって俺を標的にして余計に打ってくるしね」
軽快にランニングをこなし、軽いフットワークで打球を処理する後輩たちをうらめしく眺めた。翌年にはメンバーに角盈男投手も加わった。
あまりの厳しさに秋が近づくと憂鬱(ゆううつ)になったという。
「でも選ばれるってことは、次の年に期待されてるってことだから、いやなことじゃないよね。あの練習があったから、鍛えてもらったから、長く(現役を)できたというのはあると思う。俺以外は定岡にしても、西本にしても角にしても、みんな活躍したからね。だから本当に感謝ですよ」
79年に実施され、今なお語り継がれる地獄の伊東キャンプに小俣さんは参加していないが、多摩川での地獄の秋季練習は忘れがたい思い出となっている。(デイリースポーツ・若林みどり)
◇小俣進(おまた・すすむ)1951年8月18日生まれ。神奈川県出身。藤沢商(現藤沢翔陵)から日本コロムビア、大昭和製紙富士を経て72年度のドラフト5位で広島に入団。巨人で貴重な左の中継ぎとして活躍した。ロッテ時代に初完投初完封勝利をマーク。現役最終年は日本ハムに在籍。プロ通算13年で174試合に登板16勝18敗2セーブ、防御率4・73。引退後はロッテ、巨人の打撃投手を経て、長嶋茂雄監督の専属広報、終身名誉監督付き総務部主任などを務めた。





