【野球】専属広報の小俣さんが目撃した長嶋茂雄さんと松井秀喜さんのマンツーマンの素振り「ものすごい緊張感、固まっているしかなかった」

 長嶋茂雄さんの専属広報を長く務めた小俣進さん(74)は、長嶋さんと松井秀喜さんの師弟関係を間近に見てきた。ホーム、ビジター問わずに、マンツーマンで繰り返された素振りを通じての指導。その関係は長嶋さんが監督を退任し、松井さんが巨人から米大リーグ・ヤンキースに移籍して以降も続いた。2度目の監督就任が決まった92年度のドラフトで競合の末に獲得し、93年から始まった2人の歩みは、小俣さんの目にどのように映っていたのか。

  ◇  ◇

 松井さんが入団した93年に長嶋さんは「4番1000日計画」を打ち出し、巨人のみならず球界を代表する4番に育て上げるため二人三脚を続けた。

 「ジャイアンツの4番は日本の4番バッターだと。それを1000日で作り上げるって公言して、その通りにした。すごいと思う。毎日だから、毎日バットを振らしていたから」

 小俣さんは改めて、2人が積み重ねてきた時間に感慨を込める。

 本拠地・東京ドーム内の一室では、閉ざされたドアの向こう側で2人の時間は流れていた。

 「試合前に行われるのが多かった。早い時は10分ぐらいで出てくるけど、時間がかかる時は20分か30分ぐらいかかってたかな。いい音が出ないとなかなかオッケーが出なかったんだろうね」

 長嶋さんからの指令で急きょホテルの部屋を手配するケースもあった。

 「甲子園で阪神戦が終わって、移動日なしでゲームがある時だったかな。朝一番で東京に戻った監督から“小俣、どこかホテルの部屋を取れ”って言われて」

 バットを振るには広いスペースが必要になる。銀座の有名ホテルのスイートルームをおさえて、長嶋監督が待っていることを松井さんに伝えた。

 01年に監督を退任しても、松井さんが03年に米大リーグ・ヤンキースに移籍しても、長嶋さんはまな弟子を心配し続けた。そんな長嶋さんに同行してニューヨークにも飛んだ。

 「監督がニューヨークに行くぞって。テレビの解説の仕事で行ったんだけど、目的はバットを振らせることだった。電話越しにもやってたんでしょうけど。そのころ松井の調子がよくなかったから、いてもたってもいられなかったんでしょう」

 名門プラザホテルの一室が素振り指導の舞台だった。

 「宴会場みたいに広い部屋にヤンキースの松井がバットを持ってきた。呼ばれた松井もびっくりだけど、周りの人もびっくりしたんじゃないかな」

 高級ホテルにバット持参で現れた松井さん、到着を待つ長嶋さん。不思議な光景を思い起こして苦笑した。

 通常は、長嶋さんと松井さんの2人だけの世界だが、こうしたイレギュラーな機会には小俣さんも同じ部屋にいることがあったという。

 「ものすごい緊張感だから、こっちは固まっているしかなかった。監督はバットの音を聞いて、松井は汗をビッショリかいて。バットを振ってる松井が汗をかくのは当然だけど、監督はじっと座っていても汗をかいてる。いかに“音”に集中しているか」

 長嶋さんは神経を研ぎ澄ませて松井さんのバットスイングの音を聞きながら「よ~し」、「あ~」などと反応する。張り詰めた空気に支配された部屋の片隅で、小俣さんは必死に気配を消した。

 「あの2人の関係は特別だった。自分の野球人としてのDNAを松井に移したかったんだろうな」

 ポツリとつぶやいた。

 「松井がアメリカに行くと言った時は、複雑だったんじゃないかな。監督は自分も行きたかったわけだから。個人的には行ってほしかったけど、立場的には行ってほしくないというのがあっただろうから」

 現役時代にドジャースに誘われながら、自身の日本球界における立場を考えて踏みとどまったという長嶋さん。小俣さんは、巨人の終身名誉監督という立場で松井さんを送り出した当時の長嶋さんの心中に思いを巡らせた。(デイリースポーツ・若林みどり)

 ◇小俣進(おまた・すすむ)1951年8月18日生まれ。神奈川県出身。藤沢商(現藤沢翔陵)から日本コロムビア、大昭和製紙富士を経て72年度のドラフト5位で広島に入団。巨人で貴重な左の中継ぎとして活躍した。ロッテ時代に初完投初完封勝利をマーク。現役最終年は日本ハムに在籍。プロ通算13年で174試合に登板16勝18敗2セーブ、防御率4・73。引退後はロッテ、巨人の打撃投手を経て、長嶋茂雄監督の専属広報、終身名誉監督付き総務部主任などを務めた。

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