【野球】長嶋監督2001年辞任発表の舞台裏“最も近い存在”小俣さんに直前まで告げられなかった訳
左の中継ぎ投手として広島、巨人、ロッテなどで活躍した小俣進さん(74)は、長嶋茂雄さんが巨人監督に復帰した1993年から専属広報として動き始めた。長嶋フィーバーに沸く中、常に監督に寄り添いサポート役に徹してきたが、2001年シーズン終了間際に、監督は退任を発表した。直前まで小俣さんに、その決意は知らされなかった。
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2001年9月28日、渡辺恒雄オーナーとともに、東京ドームホテルで会見した長嶋監督は、シーズン終了をもって辞任することを電撃発表した。
「今日の天気のこの青空のようにスカッとしています」
晴れやかな笑みを浮かべながら心境を語った。93年シーズンから巨人監督に復帰し、チームを率いてきた長嶋さんの65歳での決断だった。
監督の復帰年から監督付の専属広報として動いてきた小俣さんは、直前まで辞任を聞かされていなかった。その理由は長嶋さんから電話で説明されたという。
「どうして教えなかったかというと、“おまえは一番近くにいるから、もし、そんなことを知ったら顔に出るかもしれない、何かでしゃべってしまうかもしれない。それで言わなかった”。そう言われましたね」
長嶋さんは会見の席上、渡辺オーナーに辞意を告げたのは「8月末」だと明かしている。そこから発表直前まで「一番近くにいる」小俣さんにも悟られないよう振る舞っていたことになる。
「監督がユニホームを脱ぐとなったら、もう二度と着ないだろうと思っていたから、辞めるのは悲しかった。だけど、監督にそう言われた時、ありがたかった。そんなに近くに感じてくれていたんだと思うと、涙が出るくらいうれしかった」
あこがれ、尊敬してきたミスターがユニホームを脱ぐ日。小俣さんは衝撃を受けながらも、監督の言葉に胸を打たれた。
長嶋監督の去就は当時のプロ野球界の大きな関心事であった。もし、早い段階で聞かされていたとしたら、専属広報である小俣さんの神経はすり減っていただろう。
「においをかぎつけた人から電話があったり取材されたりすると、うそを言えなくなっていたかもしれない。否定したとしても、それがうそになってしまうし…」
早々と決意を伝えることで小俣さんを苦悩させまいとする、監督の心遣い、優しさが垣間見える。
巨人監督と専属広報としての関係は区切りを迎えた。「9年間現場で一緒にいさせてもらった。その後もいさせてもらってるんですけどね」。
今後の希望を長嶋さんに聞かれた小俣さんは「監督の仕事があるのなら、やらせてください」と直訴。終身名誉監督となった長嶋さんを引き続き支えることになった。
翌年12月に長嶋さんはアテネ五輪の野球日本代表監督に就任。03年11月には代表ユニホームに袖を通し、札幌で五輪予選の指揮を執った。
「監督はベンチで一番声を出して、声をからしてた。試合が終わると車の中ではかなり疲れた顔だった。とにかく集中していたから。すごいプレッシャーだったと思う。日の丸を背負って戦う責任感が、あの病気を引き起こしたのかもしれない」
04年3月、長嶋さんは脳梗塞を発症した。
「寝たきりも覚悟してくださいと言われる重症だった。だけど、絶対にアテネに行くんだって、一週間も経たないうちにリハビリをやり始めた。途中からはリハビリじゃなくてトレーニングみたいだった。本人はアテネに行くつもりだったし、本当に行くんじゃないかと思って、ユニホームを作ってもらったんです」
壮絶なリハビリに取り組む長嶋さんの姿から見えた五輪への執念と覚悟。日の丸と背番号3がつけられたユニホームには、右半身がまひした監督が脱ぎ着しやすいよう、袖口からファスナーが施されていた。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇小俣進(おまた・すすむ)1951年8月18日生まれ。神奈川県出身。藤沢商(現藤沢翔陵)から日本コロムビア、大昭和製紙富士を経て72年度のドラフト5位で広島に入団。巨人で貴重な左の中継ぎとして活躍した。ロッテ時代に初完投初完封勝利をマーク。現役最終年は日本ハムに在籍。プロ通算13年で174試合に登板16勝18敗2セーブ、防御率4・73。引退後はロッテ、巨人の打撃投手を経て、長嶋茂雄監督の専属広報、終身名誉監督付き総務部主任などを務めた。





