【野球】巨人・長嶋監督との出会いから半世紀 専属広報務めた小俣さんの尽きることのない思い「長嶋さんを好きになってよかった」
国民的スターだった長嶋茂雄さんが6月3日に亡くなってから5カ月が過ぎた。選手として長嶋巨人の優勝に貢献し、引退後は専属広報を長く務めた小俣進さん(74)は、ミスターと一緒に過ごした濃密な日々を振り返りつつ、感謝の気持ちに包まれている。出会いからおよそ半世紀。野球を愛したミスターの志を多くの人が受け継いでくれることを願っている。
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少年時代から憧れてきた人との思い出は尽きない。
「毎日毎日会ってたけど、毎日が緊張だった。毎朝、今日は何のハプニングがあるのかなと思ってた」
驚かされことばかりだった日々を小俣さんは楽しそうに語り始めた。
「例えば」と口にしたのは優勝旅行先のハワイでの出来事。「3日目ぐらいに“おい、明日からロスに行くから手配しろ”って。一週間ぐらいハワイにいないといけないのに“いいんだ、いいんだ”って言ってね」
雨天中止となった遠征先では、その日のうちに帰京すると言い出し空港へ。搭乗受付時間は締め切られていたが「カウンターで、監督が俺の背中の後ろからひょいって顔を出して“お嬢さん”って声をかけてね。驚いた彼女が上司を連れてきて、乗ることができた」
飛行機に最後に乗り込んだ大物は、搭乗客に拍手されながら笑顔を振りまき最後尾の席に着いた。
同率首位で並んだ中日との最終決戦を制して優勝した94年の10・8。今も語り継がれる大一番は、試合前から異様なまでの熱気、緊張感に包まれていたが監督は1人楽しんでいたという。「長嶋さんだけニコニコして“よ~し、いい場面だ、いい舞台だ”って感じなんだよ」。話題は尽きることがない。
75年オフに長嶋監督に求められて広島からトレード移籍。その“出会い”からおよそ半世紀となる。「いい思い出しかない。現役時代に四球を出して怒られたのだっていい思い出。怒られる理由があったから。野球人たるもの、勝負しないで何になるって。勝ち負けはあるけど、その前に逃げてどうするんだってことだから」
脳梗塞を起こしたことで04年のアテネ五輪で指揮を執ることはかなわなかった長嶋さんが、日本代表メンバーを空港で出迎えた際に発した言葉は胸に刻まれている。
「“いい経験をしたんだから、野球の伝道師になれ”と選手に声をかけてね。あのころのプレーヤーがみんなそう思ってくれてるといいんだけどね。それが長嶋さんの望みだから。人生そのものだからね、野球は」
小俣さん自身も横浜の中本牧リトルシニアで週4回、アドバイザーとして選手を指導。球界への恩返しを続けている。
最後の最後まで、野球への情熱を長嶋さんは見せてくれた。
今年3月15日。東京ドームで行われたドジャースと巨人のプレシーズンマッチ。次代のスーパースター大谷翔平選手に会うため球場に向かった長嶋さんに付き添った。
「本当は外出はダメだった。でも無理して出て行った。あれが最期になってしまったんだけどね」
車椅子に座り、大谷選手と笑顔で2ショットに収まった長嶋さんは、その時の服装で荼毘(だび)に付された。
願うのは、長嶋さんが亡くなった6月3日が長嶋茂雄デーとなってプロ野球の試合が開催されることだという。
「その日だけは、みんなが3番をつけてもいい日になってほしい」
少年時代、仲間と3番を取り合った思い出がよみがえる。長嶋さんなくして自身の野球人生は成り立たなかった。小俣さんは取材をこう締めくくった。
「野球をやっててよかった。野球を好きになって、長嶋さんを好きになってよかった。幸せな人生でした」
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇小俣進(おまた・すすむ)1951年8月18日生まれ。神奈川県出身。藤沢商(現藤沢翔陵)から日本コロムビア、大昭和製紙富士を経て72年度のドラフト5位で広島に入団。巨人で貴重な左の中継ぎとして活躍した。ロッテ時代に初完投初完封勝利をマーク。現役最終年は日本ハムに在籍。プロ通算13年で174試合に登板16勝18敗2セーブ、防御率4・73。引退後はロッテ、巨人の打撃投手を経て、長嶋茂雄監督の専属広報、終身名誉監督付き総務部主任などを務めた。





