古い話になる。甲子園球場に近い居酒屋。いつもそうであるように彼は早くから来て、飲み始めていた。長い付き合いの虎のスカウト。耳の回りに白いものが増えている。

　「いいのがいるの？」と金の卵を聞いたら、「いる。でも、うちには反応が良くなくてね」。微温（ぬる）めの燗（かん）の日本酒を口まで運んでは、すぐのどには流さない。

　酒飲みにはさけのみの妙なクセがある。

　「今日は記者バッジを外してくれるかい？」「…」「書かないことを約束してくれるかい」「そんな約束はできないよ」「なら、喋らない」「ならしゃべらなくていい」。

　気がおけない仲は楽しい。

　彼がなにを悩むのか。金の卵が何を思って虎をよく思わないのか。酒が進むにつれ、彼の胸のしこりが見えてくる。人気球団ゆえの間尺にあわない苦労を彼の酒が喋ってくれる。

　「阪神さんはお家騒動で有名な球団ですね。選手の派閥争いが激しいとか、監督とコーチの関係がよくないとか。そんなところへうちの息子を預けて大丈夫ですか。心配なんです。スカウトさんのせいではないんです。私らは安心して将来のある若者を野球の社会に送りだしたいんです。いい返事をできなくてごめんなさい」　

　親からこんな挨拶を聞かされてみろ、たまらないぜ。だからといってすごすごと引き下がることはできないが、耳に栓（せん）をしたい気持ち、あんたわかるまい。…スカウトの嘆きは終わりがないような気がした。

　お家騒動か。そういやあ、色々とあった。

　古くは初代ミスタータイガース藤村富美男の排斥運動。その前の２リーグ分裂に絡む若林、別当、土井垣ら主力選手の新チームへの大脱走、村山（監督）と金田（助監督）の冷戦、監督（金田）とエース（江夏）の対立、選手は大物になればなるほど、お山の大将になる。球団も扱いかねて多くの阪神の顔がタイガースから離れていった。小山、田淵、江夏…。チームにはいつも不協和音が鳴っていたように思う。しかし、なんだかそんなタイガースをみなが愛したような気がする。

　お家騒動は確かに虎のお家芸だったかもしれない。江本の「ベンチがアホやから」は妙に人気を得たし、不仲だった金田監督が窮余の一策で江夏と「心の洗濯のため」に北陸線に乗って永平寺まで座禅をくみにいったのをマスコミは、野球を離れ、こちらの取材のほうに力を入れ、笑いながら追っかけた。阪神はおもしろい…。

　「紳士たれ」が社訓の巨人には虎のような悲劇のような喜劇はなかったのか。球団あげて一枚岩だったのか。答えはＮＯである。王貞治と長嶋茂雄の、このふたりの関係には一点の曇りもなかったのか。答えはＮＯである。読売という組織と川上哲治という、まるで徳川家康のような君主がこの二人をうまくコントロールし（実際は川上の懐刀の牧野茂の存在が）阪神のようないざこざを全力で隠した。阪神には川上のようなリーダーがいなかった。選手の「個（性）」がチームを牽引した。

　巨人はチームプレーを際立たせ、スターの唯我独尊を許さなかった。そういうことである。

　ソフトバンク・王貞治球団会長が日経の名物コラム「私の履歴書」で昔の話を淡々と書いていた。王貞治新人１年目のキャンプ。川上は長嶋の部屋に王を同居させようと企てた。ところが長嶋は「ダメ」と断りを入れた。それを聞いた後の感情までコラムに書いていなかったが…。言えるのことは以後、スターになっても、王は対立こそすることはなかった。それこそ王道を選んだような気がする。

　王会長に古い昔に一度、「長嶋さんとはどうなんです？」と聞いたことがある。質問に対して、にやにやと笑っていた。それ以上は聞くことをやめた。

　冒頭の酒場。スカウトがいよいよ雄弁になってきた。

　「あんたらマスコミがうちの球団のことを悪く書き過ぎるんだよ」「事実だから書くのよ」「誇張がひどい」「人気球団の宿命だな」「そらみろ、困ったら宿命なんていう」「他の球団にもゴタゴタはあるんだろ？」「あるけれど、面白くない（笑い）」

　スカウトは酒を吹き飛ばして聞いている。

　巨人軍の試合は川上哲治監督が石橋を叩いても渡らない、というくらい、かた苦しい采配をして、強かったことは認めるがまるで面白くなかった。長嶋と王の打席だけ記者席から見つめた。

　比べてタイガースは愚直なまで、人間の本能を見せてくれた。タイガースの野球には毎夜、喜怒哀楽がついて回った。大阪のおっさんはタイガースを生活の一部とした。今日阪神が負けたら、お前とは終わりや、と本当に離婚したフアンがいた。虎キチは阪神の弱点を愛してやまないのである。（敬称略）