岡田采配に影響を与える「85吉田采配」の秘密【4】
投手は「あと1球」で天国から地獄に落ちる。
大投手・江夏豊さんですら「バッターはいいよな。3打席凡退しても4打席目、最後の1球でヒーローになれる。ピッチャーは129球、完璧に投げても130球目を打たれれば、敗戦投手だ」と言った。
あと1球で暗転した投手は過去に何人もいる。わたしはナゴヤ球場で八回までノーヒット・ノーランペースの、巨人エース・斎藤雅樹をバックネット裏の記者席から見た。九回、一瞬にして大記録は消えた。あっという間のサヨナラ劇。顔色を失くし、視線の定まらない斎藤の姿は忘れられない。一言もしゃべることができないまま、フェンスの奥に消えた。
12日の巨人2戦目、七回まで完全投球の村上を代えた。「非情采配」「勝ちにこだわった交代」という声があった。全く違う。阪神・岡田彰布監督の「情けある交代」だし「優しさの采配」だった。岡田監督は個人のタイトルや記録、数字を大事にする。日本シリーズの中日・落合監督と山井とは状況が違う。
今季初先発の村上。完全投球を1球で壊したくない、好投を今後のプロ野球人生につなげてやりたい、それだけの親心だ。交代を告げられ、ベンチに座った村上はほっとしていた。
代わった石井は、岡本に同点本塁打された。阪神ベンチはだれ一人、石井を責めなかった。翌日岡田監督は同じ場面で、別の投手を挙げたコーチを制して、石井をマウンドに送った。石井は前日と同じ、初球の直球で岡本を抑えた。
日本一になった1985年、まったく同じ場面があった。岡田は二塁から見ている。吉田義男監督が後楽園球場・巨人戦で、中継ぎの福間を原に対して同じ起用をした。打たれた福間を翌日、マウンドに送るとき観客席はどよめいた。
「球場の空気は感じましたよ。ええーっ、打たれたやつ、また使うのかよって感じでしょ。でもマウンドに行くとき、同じ場面で使ってくれた吉田監督の気持ちの方が、自分にはより大きく響いてました」。福間は後日、わたしにそう打ち明けた。
岡田監督に「尊敬する監督は?」と聞けば3人の名前を挙げる。早大時代の石山建一監督、阪神の吉田監督、そしてオリックス・仰木彬監督。尊敬する理由はそれぞれ別にある。阪神監督としての采配で、最も影響を受けているのは吉田監督だ。
日本一になった85吉田采配が、選手会長だった岡田の体に流れている。85吉田采配とは何か。当時を振り返りながら、秘密を紐解いてみる。
-1985年、2月5日。阪神タイガースの安芸キャンプは、最初の休日を迎えていた。春の海が輝いている。市営球場から遠く見下ろすと、太平洋の水平線が広がる。
「あんた、そないに空へ向かってバットを振っても、ボールは飛びまへんで」
吉田監督の大声に、黒土のグラウンドには笑顔が広がった。海も空も、突き抜けるように青い。マウンドの吉田監督が、大きなソフトボールでぽんぽんとグラブをたたいた。駆け出しトラ番のわたしは、打席で金属バットを構え直した。
捕手は土井淳、一塁に並木輝男、二塁に一枝修平、遊撃は米田哲也、そして三塁には中村勝広。外野には上田次朗、若生智男、石井晶がいる。かつての名選手、タイガースのコーチ陣が並んだ。
吉田監督の発案だった。
キャンプ休日に首脳陣とトラ番記者が、親睦のゴルフコンペをすることは、それまでにもあった。ゴルフをしない記者は参加できない。吉田監督が気にしていた。
「一丸がテーマでっせ。シーズン中もずっと一緒のトラ番には特に、支えてもらわんとあきまへん。野球やと危ないからソフトボール大会がよろしいなあ。どうせ球場には休みの選手、誰も出て来まへんわ」-。
(この項続く=特別顧問・改発博明)
◇改発 博明(かいはつ・ひろあき)デイリースポーツ特別顧問。1957年生まれ、兵庫県出身。80年にデイリースポーツに入社し、85年の阪神日本一をトラ番として取材。報道部長、編集局長を経て2016年から株式会社デイリースポーツ代表取締役社長を務め、今年2月に退任した。