1・17繋ぐ「野球の力」
1・17から何日後だったか。当時大学4年だった僕はデイリースポーツに義援金を届けた。でも、入社は絶望的だと思っていた。三ノ宮駅前の本社が壊滅し、記者になる夢は閉ざされた…
そう思っていた。95年の春である。
あれから30年が経った。
いまプロ野球殿堂の投票資格を持つ記者としてPCのキーをたたきながら自分の投じた票を噛みしめている。
デイリーから入社内定の通知が届いた94年、僕は掛布雅之と一緒に写真に写っている。場所は高知。解説者として西武のキャンプ地を訪れていたミスタータイガースにお願いして撮らせてもらった。清原、工藤、郭泰源…黄金期のライオンズ見たさで春野まで足を運んだが、虎党の血が騒いだ。
あの年、パ・リーグ5連覇を達成した獅子とは対照的に虎は暗黒期に突入していく。神戸から灯が消えた95年、復興の光となるはずの阪神は最下位。入社間もない僕が取材の手伝いに追われたのは、西武の6連覇を阻んだオリックスと、その象徴だった。
30年前を回想しながら僕も「がんばろうKOBE」のシンボルに1票を投じた。祝う!殿堂…と同時に、残念ながら今年は「殿堂入り」ならなかった当時の青波戦士を思う。
「岡田さん、あの年、オリックスに居てはったんですよね。先日、震災の取材を受ける岡田さんに付いて立ち合ったのですが、そういえば…と」
そんなふうに語るのは、この2年、岡田彰布の一番近くで息づかいを感じていた前監督付広報、藤原通である。
95年、兵庫高砂で被災した藤原は当時、白球を追う中学3年生だった。虎党だったが、通いつめた球場はグリーンスタジアム神戸。快進撃のブルーウェーブに夢をもらった。そんな彼があの年一度だけ甲子園を訪れたのは震災直後の3月。4月に入学が決まっていた神港学園がセンバツに出場、アルプス席で先輩の勇姿を目に焼きつけた。兵庫は育英、報徳、神港の3校が出場し、中でも神港の8強で「被災地が勇気をもらった」と報じられたが、実は僕はこの類の美談に戸惑いがあった。
京都で大学卒業を控えていた当時、西宮で被災した同級生の自宅が半壊。インフラが途絶え、先の見えない生活で心身の疲弊は限界だと言っていた。そんな状況下で被災者は「野球から力をもらえた」のか…。藤原は言う。
「僕は4月から神港学園に通いましたけど、元町駅から学校まで歩いて10分のところ、街はまだまだ瓦礫で30分以上かかりました。センバツの活躍で野球部は100人以上入部したんですけど、仮設住宅から通う部員も多くて…。でも、僕らが野球に没頭していたら部員たちの家族でも、辛くても気が紛れるという人が多くて、甲子園を見て活力をもらったと言う大人の人が沢さんいたことを覚えています」
デイリー入社30年目の春。大学の後輩でもある藤原は僕にこう聞くのだ。
「阪神・淡路大震災の年のプロ野球って、予定通り開幕できたんですか?」
開幕した。神戸の力、野球の力。1・17を繋いでゆきたい。=敬称略=