津田の恩師から球児への伝言
【3月28日】
炎のストッパー津田恒美の墓を参った。山口県周南市和田の竹林、その急勾配の石段を上がれば、野球のボールをモチーフにした石碑がある。そのとなり、津田家の墓前で手を合わせた。
ずっと行きたかった場所。だけど、なかなか足を伸ばせなかった。この日は滞在先のホテルを早朝に出発し、電車を乗り継いでGoogleマップを頼りに津田の母校を巡り生家にも…。
「お墓、大変だったでしょ。あの坂をのぼるのは…」
32歳でこの世を去った「伝説」。その母校、南陽工高時代の監督・坂本昌穂に連絡すれば「ありがとうございます」と謝意をくださった。
和田小、和田中、南陽工…。剛腕が育った場所を訪れ、校庭を眺めると、ありし日の津田に逢えた気がした。
なぜこの開幕戦の朝に津田のルーツを訪ねたかといえば、藤川球児の言葉を思い出したからである。
「うちの父親から津田さんのことをずっと聞いていて…」
あれは今はなき旧広島市民球場で阪神戦ラストゲームが行われた08年9月7日のこと。その試合前に球児はカープのブルペンに足を運び、津田を偲ぶプレートを目に焼きつけた。一塁側のブルペンに消えた球児をたまたま見かけたので「何をしに行ったのか?」と聞けば、そんな話をしてくれた。
さらに、自身が引退を決意した20年にも今度はマツダスタジアムに移設された同プレートに手を合わせ、「やっと御礼が伝えられました」と、当時Twitterに綴っていた。
指揮官になって戦場へ戻ってきた球児にとって津田の足跡が残る広島は特別な場所に違いない。
開幕星を飾ったこの夜、三塁ベンチから村上頌樹を見つめる背番号22を目で追えば威風堂々に見えた。内心は分からない。様々な感情が混在し、それが内向きになる瞬間があったかも…。それでも、球児は少なくともそんなツラを表に見せることはないのだ。
80歳になった坂本は僕に言う。
「津田は『弱気は最大の敵』という言葉を自分の座右の銘にしていたようですが、彼は自分は弱気であるという最大のウイークポイントを自分で理解していたわけです。だから、そこを何とか克服しなければという思いでああいう言葉を使うようになったんだと思います。弱さを悟ったから、ああいう投球ができるようになった。自分の弱さを知るというのは大事ですよね…」
僕の見てきた中で「日本最速」は永遠に津田恒美と藤川球児。そんな独断を告げると、坂本は「2人の球質は似ているんじゃないですかね。ストレートがホップするような感じで」と何だか嬉しそうだった。
歴史を刻んだ2人の剛球はその質が重なる。では、戦う心はどうか。
「僕の心の恩師」。球児は津田のことをそう語る。そんな話を伝えたところ、坂本から伝言を預かった。
「藤川監督に会われたら、こういうじいさんが喜んで御礼を言っていたとお伝えください」-。=敬称略=
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