【74】高校野球の国際親善 ホストファミリーと紡いだ生涯の思い出
「日本高野連理事・田名部和裕 高校野球半世『記』」
戦後の高校野球海外交流は米国ハワイ州が最初だ。1953年に初めてハワイ州選抜が来日、日本選抜の派遣は55年の第37回選手権大会、三重・四日市高校が初出場で全国優勝した年だ。その後2年ごとに相互派遣し、2011年の四国地区選抜派遣まで実に58年間続いた。
ハワイでは日系2世の皆さんがホストをしてくださった。彼らは、第2次世界大戦で、日系人で編成した442部隊としてイタリア戦線に派遣され、勇猛果敢に戦ったことで、戦後の日系人の名誉が大いに回復、その貢献が称賛された。
この部隊に所属した人たちが退役後、442ベテランズクラブを組織し、日本から大相撲や美空ひばりさんを招くなど、戦後の日米親善に貢献された。
退役後、ハワイ州体育局長をされたトム・キヨサキさんは、足に深い銃創があった。この日系人たちが中心となって、ホームステイなど献身的な受け入れをしてくださった。
初代日本選抜の監督の松井一之さん(当時朝日新聞運動部、のちに連盟副会長)は「あの頃はまだ日本は物のない時代で、ハワイからお土産に砂糖を一杯持ち帰り、重量オーバーを日航と交渉したよ」と懐かしんでいた。
また、日本の高校生が、訪問のたびに体格がよくなっていることと礼儀正しさもよくほめていただいた。
ハワイの皆さんは片言の日本語を交えて話される。ちょっと戸惑ったのは「今日、何時から遊ぶ?」と聞かれたことだ。え?と思ったが、PLAYは、直訳すると「遊ぶ」だ。つまり、今日は何時から試合するのか、という意味で度々「遊ぶ」という言葉が出てくる。まさにベースボールは楽しむものだと再認識した。
僕が最初に全日本選抜に同行したのは、83年の第65回選手権大会でPL学園が1年生の桑田真澄投手を擁して2度目の優勝した時だ。
サンフランシスコからサクラメントなどを経てハワイを訪問、2週間の旅だった。米本土は開催地のボランティアの家族にお世話になった。日系人家族はいなかった。現地に到着しホストファミリーに選手を紹介、1軒に2人ずつ割り当てた。
選手たちはもちろん海外経験は初めてで、言葉が通じない不安を抱きながら引き取られて行った。すると1時間ほどして1組の生徒たちがホストのご主人に連れられて役員宿舎に戻ってきた。
ご主人は「風呂が先か、食事か」と聞くが一向に通じないという。生徒たちも「よく分かりません」としょんぼり。「何とかボディランゲージで頑張れ」と再度送り出した。夏休みを前に海外留学を計画している生徒ならともかく、日頃部活に追われている選手たちには少し無理かなぁと反省した。
でもその後、桑田君に会った時、MLBの経験もしているが、英語が上手なのに驚いた。彼はこの時の体験から英語を身に着けようと頑張ったと聞いた。
その後のロサンゼルス滞在では、在留邦人が「ホスト」を結成、ほぼ邦人家族で受け入れてくれている。
このまとめ役は木下和孝さんで、僕と同い年、ロスに永住を決めている。甲子園で活躍した選手が来る、というので郷里の選手の取り合いになる。事前に綿密な打ち合わせで役割を決め、選手にとってこの上ない環境で迎えてくれる。
先月、かつての全日本選抜選手の結婚式に出席したが、なんとロスでお世話になったホストのご夫婦をご招待していた。やはり生涯の思い出なんだろう。
僕はその後も何度かハワイに行ったが、かつての好々爺の皆さんもほとんど他界され、軍人が埋葬されるパンチボール(国立太平洋記念墓地)への墓参りが慣例になった。