【78】「庭石の教え」「佐伯達夫元会長が説いた陰の努力の大切さ」
「日本高野連理事・田名部和裕 高校野球半世『記』」
戦後の高校野球復活を成し遂げた佐伯達夫さんが亡くなられたのは昭和55年(1980年)3月だった。
あれからもう36年もの年月が過ぎた。佐伯さんを知る人はほとんどいなくなった。
僕の父は元日が命日で、年が明けると墓参りから一年が始まる。
連盟に奉職以来、正月2日は、羽曳野の佐伯さんのお宅に新年のあいさつをした。純日本家屋で、200坪くらいの庭は、自然のままに実生の樹木が茂っていた。
ある時、庭の片隅を指して「あれは生駒山から運んできた石だ。庭石は上に出ている部分で評価するのではなく、あの下にどれだけ埋まっているかを推量して値打ちが決まる」といわれた。つまり人間に例えれば陰の努力が大切だと諭された。
その後を振り返ると十分な準備をしていなかったときは叱られたが、無我夢中で準備をしたときは不思議なくらい叱られたことはなかった。
叱られたといえば勤め始めた頃、評議員会の昼弁当調達でひどく叱られた。
その年初めて弁当の手配を命じられた。評議員会は全国から出席者が集まる最も大きな会合だ。そのころ大学野球部の同級生N君が、家業を継いで仕出し屋を始めた。よい機会だから弁当を発注した。
当時駅弁が550円程度だった。そこで予算は600円と踏んで佐伯さんに聞くと、「遠方の方もいるからそれでよろしい」との返事。
さらにN君に、和・洋・中華と三種類の見本を作ってもらった。
試食を求めると健啖家の佐伯さんはハンバーグの洋風弁当を手にOKが出たのでちなみに値段を聞くとサービスで800円相当にしているとのことだった。
いよいよ会議当日になり、出席者から「今年の弁当は豪華や」と喜んでいただいた。
しかし数日後、財務担当理事から「佐伯さんが怒っている。弁当のことらしい」と聞いた。そしてついに会長室に呼ばれた。
ご立腹の意図は「あの弁当はいくらした」「予算通り600円です」と内心800円の内容だから問題はないはずと思って答えた。すると「馬鹿もん、予算を目一杯使ってどうする。連盟のお金は全国の球児の預かりものだ。1円たりともおろそかに使うことはまかりならん。どうして5円でも10円でも安くする努力をしなかったか」と唇を震わせて叱られた。
その時は「それならそうとなぜ最初から言ってくれない」と不貞腐れた。でもその後考えると自ら節約する発想を持たなければ連盟事務局は務まらないと反省した。懐かしい思い出とともにまもなく正月がやってくる。