【88】「観る」から「参加する」へ 黎明期より女性が熱い視線
「日本高野連理事・田名部和裕 高校野球半世『記』」
第99回選手権大会は長島三奈さんのはつらつとした始球式で幕を開けた。
長年高校野球の取材で、愛情あふれるコメントを伝えてきた三奈さんは著書で「私のDNAはボールの形かしら」と書いていたのが印象に残っている。
三奈さんはマウンドとの往復で2回、ファウルラインをまたぐ時、帽子をとって深々と礼をされた。球児の憧れのグラウンドに深い敬意を表してのことかと思う。足を高く上げ、大きくワインドアップをして思い切りよく白球を投げ込んだ。実にさわやかな儀式だった。文部大臣以外の女性の始球式は史上初めてのことだった。
制服につば広の白い帽子で入場行進を担当してくれた市西宮高校の女生徒達も1949年(第31回選手権大会)以来の伝統を受け継いで毎年代表校のプラカードを担当している。
2代前の連盟会長脇村春夫さんが、神奈川・湘南高校の選手として初出場、初優勝を遂げた年だ。当時のプラカードを担当した卒業生の思い出が大会史に記されている。親子2代で担当した話も伝わっており、もう孫の世代かもしれない。
戦後の復活大会で西宮球場の次に甲子園で開幕した第19回選抜大会の決勝戦では一、三塁のアルプス席に「レディスデイ」としてそれぞれ1000席の女性席を設けたとある。
女性席は豊中で行われた第1回選手権大会(1915年)でも本塁の後ろに屋根付きの木造観覧席を設けたそうだ。大会創始の功労者のお一人、小西作太郎さん(三高OB)によると、平岡寅之助審判副委員長の令嬢がアメリカでベースボールを見ておられた野球ファンで、どうしても婦人席を設けなければと設営されたという。
ベースボールの歴史に詳しい作家の佐山和夫さんによれば、一、三塁のファウルラインは観客のためにできたとか。ベースボールが誕生した頃、街の青年たちがプレーするので若い女性たちも見物にやってきた。黎明(れいめい)期のベースボールでは、打球は360度インプレーで、観客は近づけず、遠くから見守っていた。
それではせっかくの青年たちの活躍ぶりも十分見てもらえないというので、ファウルラインを設けた。ラインを越えるとボールデッドになり近くで見学できた。
そして現代は、女性が観る野球から参加する野球に変わり、今回の選手権大会代表校の多くで女子マネジャーの姿が見られた。メディアの女性記者も珍しくなくなった。
今も昔も女性が支援する行事は活気に満ちている。