【スポーツ】“東京の星”飛び込み板橋美波の涙の5年間

 幾度もなく諦めかけた東京五輪の代表入りを手中に収めた彼女は、この5年間を思い、泣いていた。21歳の板橋美波(JSS宝塚)。5月2日、W杯で女子シンクロ高飛び込み7位入賞を果たし、12日、正式に日本水連から代表決定が発表された。

 16歳で出場した16年リオ五輪女子高飛び込みで、日本女子80年ぶりとなる8位入賞。“東京の星”と呼ばれてきた。武器は「109C(前宙返り4回半抱え型)」。女子では世界で自分一人しか飛べない大技だった。

 「中学生の時に東京五輪の開催が決まって、それからずっと東京を目指してきた」。しかしリオ以降のこの5年間、彼女はずっと、もがき続けてきた。

 入水時の衝撃から、18年4月に右目の網膜剥離で手術。19年3月には左すねを疲労骨折し、骨の中にチタンを埋め込む大がかりな手術を受けた。「手術後は、筋肉を切ってしまっていたので歩けなくて。それにまず悲しかったです。歩けない悲しさ。最初は車いすに移動するまでに10分くらいかかった」。松葉づえなしで歩けるようになるまでは、1カ月半を要した。

 少しずつプールに戻り始めた19年7月の世界選手権で、同門の後輩・荒井祭里(JSS宝塚)らが東京五輪代表に内定した。本格的に練習を再開したのは8月。「手術してから本当に『オリンピック』って言葉に敏感になりすぎて。自分がやっと動けるようになったくらいでみんながオリンピックを決めていって、焦りしかなかった。テレビでも『オリンピック』って言うし、外を歩いててもあと何日みたいなのが出てて。見たくもないのになんで見なあかんねん!って」。しかし全力で練習すると、足の痛みがぶり返す。練習して、休んで、その繰り返しだった。

 万全の状態には戻しきれないまま、東京五輪の選考会であるW杯のメンバーを選ぶ派遣選考会(20年2月)に出場。しかし結果は振るわず、個人での五輪は絶望的となった。

 その後、程なくして世界はコロナ禍に見舞われ、東京五輪の1年延期が決定。緊急事態宣言中は練習もままならなかった。その間も「すごい落ち込んでいた」と板橋。プールには通ったが、身が入らない日が続いた。

 手術後は飛び込みの本数制限もあった。厳しかったコーチから怒られることも減った。「『今のでいいよ』と言われるのも悔しい」。ラインで知人に葛藤を明かすと「求められないからやらないじゃなくて、自分から求めるようにしたら気持ちも変わるんじゃないか。昨日より今日、今日より明日、1ミリでも前に進もう」とメッセージをもらった。個人での東京五輪が絶望的になってから約半年後のことだった。

 今の自分にジャンプアップはできない。でも1ミリでいい。1ミリでも前へ。そう思うと、ようやく「TOKYO」へ向けて前向きな気持ちになれた。負荷の大きい109Cは飛べない。代表入りにはシンクロしか道がない。だからこそ、苦手でなかなか時間を割けなかった基礎的な練習にも真摯(しんし)に取り組んだ。主体的に練習内容を考え、自ら発信するようにもなった。1ミリずつ、積み重ね続けることを諦めなかった。

 以前、板橋は「これだけケガしてきているので、東京はまた(リオとは)違った思いがある」と言っていた。「1回出たけど、こんなことがあって、でもまた復活できて、オリンピックに出られましたってなればいいな」と。

 代表選考会後には、涙ながらに「失ったものもたくさんあるけど、それ以上に新しく得たものもある。手術する前の自分よりももっと強くなっていけたら」と語った。一方で「正直悔しさしかない」と話していたのも印象的だった。

 自身のSNSには「どんな形であれ、またこうして大舞台に立って演技ができたこと、負けて悔しいって思えるまで回復してきたこと、言葉にできないくらい嬉しかった」とつづった。

 きらめていた5年前とは違う。輝きを失い、暗闇をさまよい、それでも新たな光を信じて現実を受け入れ、また立ち上がる。その強さは計り知れない。東京五輪への道のりは思い描いていたような華々しいものではなかっただろう。だからこそ、彼女にしかできない『ダイブ』がきっとある。東京五輪代表決定。決して飛び込みを捨てなかった板橋だからつかめた切符だと思う。(デイリースポーツ・國島紗希)

関連ニュース

編集者のオススメ記事

オピニオンD最新ニュース

もっとみる

    ランキング

    主要ニュース

    リアルタイムランキング

    写真

    話題の写真ランキング

    注目トピックス