【野球】燃える男・星野仙一氏の素顔「俺にわざとぶつけてくることはなかった」巨人V9戦士高田繁さんが語った明大の後輩
巨人のV9メンバーで、日本ハム、ヤクルト監督などを務めた高田繁さん(79)は、明大時代に輝かしい実績を残している。7度のベストナイン選出は現在も六大学記録で、通算127安打はリーグ2位を誇る。1学年下のエースは、のちに中日に入団し燃える男と呼ばれた星野仙一氏だ。2人は明大の名物監督だった島岡吉郎氏の鉄拳制裁を浴びなかった数少ない選手と言われている。卒業後に巨人と中日で対戦することになった2人の関係性とは。
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“伝説”の真偽を問うと高田さんは苦笑いしながら言葉を返した。
「殴られてないのは事実。俺も星野もたまたま。でも、そういう人はいっぱいいる。100人いて100人を殴ってるわけじゃない。『御大』のやり方というのは、要するにプロ野球に入るような人、チームの中心選手をまずガツってやる、それでチームを引き締める」
37年間にわたって明大野球部を率い、「御大」と呼ばれた島岡監督の熱血指導の意図を解説してみせた。
ともに中心選手だったにもかかわらず、2人はなぜ、鉄拳制裁の洗礼を浴びなかったのか。
「俺は多分、かわいそうだと思ったんじゃないの。星野はちょっと手を出したら怖いと思ったんじゃない?あいつは反抗しよるから」
そう冗談めかしたが、高田さんがいかにそつのないスマートな選手だったのか、星野さんがいかに血気盛んな選手だったのかがうかがえる。
島岡監督が決めた部屋割りで、2人が1年近く寮の一間で枕を並べていたのも興味深い。
「御大の部屋が2階にあって、その隣がキャプテンの部屋。4年でキャプテンをやった時、普通、部屋子は1年か2年生なんだけど、3年の星野が部屋子になった。何でそうなったのかは本当に分からない。だから星野は俺の布団の上げ下ろしをしてる」
優秀なキャプテンに、強気なエースを擁したチームだったが、2人とも優勝とは縁がなかった。
「俺の4年間、星野も4年間、優勝してない時期にどっぷりハマった。8シーズンのうち7回もベストナインに選んでもらったし、数字的には満足だけど、優勝が一度もないのは一番の負い目。悔いが残る。今も明治に行ったら肩身が狭い。できたらキャプテンの時に優勝したかった」
学生時代の忘れ物を口にした。
大学卒業後、2人はライバル関係となる。高田さんは巨人に、星野さんは1年後に中日に、いずれもドラフト1位指名を受けて入団した。高田さんは現役時代の燃える男をこう評する。
「星野の武器は相手を脅すこと。意図的にぶつけようとしてくるから選手は怖いし、腰が引ける。柴田(勲)さんとか、土井(正三)さんとかは、しょっちゅう頭付近に投げられてひっくり返されてた。土井さんが『コラー』って怒鳴ったら、マウンドから『おまえなんか当てるか、もったいないわ!』って言ってたぐらい」
マウンドと打席で繰り広げられた激しいやりとりを懐かしんだ。
「もちろんインコースを攻められるし、デッドボールもあったけど、俺にわざとぶつけてくることはなかった。100%安心してやれた。やっぱり俺の部屋子で、先輩後輩で3年間一緒だったし、一緒の釜の飯を食ったわけだから。俺は、結構打ったんじゃないかな、星野を」
高田さんはニヤリと笑った。星野さんにとっては生涯頭の上がらない怖い先輩だったのだろう。
2018年1月の星野さんの訃報は球界に衝撃を与えた。高田さんが星野さんに最後に会ったのは、約1カ月前に開かれた星野さんの殿堂入りを祝うパーティーだった。
「あいつは言わなかったからね、限られた人にしか。ちょっと痩せたなとは思ったんだけど」
病を隠して笑顔を振りまいていた星野さんの姿を回想した。
「巨人戦に強かったし、闘志をむき出しにして勝ってるピッチャーだった。でも選手としてよりも、やっぱり監督、指導者として彼の能力はすごかったし結果を出してる。殿堂入りにふさわしかったね。アメとムチの使い方が上手で、“人たらし”だったな」
監督として中日、阪神、楽天を優勝に導き、編成面でも剛腕ぶりを発揮した後輩に思いを巡らせた。
(デイリースポーツ・若林みどり)
高田 繁(たかだ・しげる)1945年7月24日生まれ、79歳。大阪府出身。右投げ右打ち。外野手、三塁手。浪商高から明大に進み、67年に巨人からドラフト1位で指名され入団。1年目からレギュラーとして活躍し、68年は新人王と日本シリーズMVPに選ばれた。堅守、巧打、俊足でV9に貢献、71年には盗塁王を獲得した。76年には三塁手にコンバートされた。80年に現役を引退し、85年から日本ハムの監督を務めた。退任後は巨人のヘッドコーチなどを歴任、05年に日本ハムのGMに就任。08年からヤクルト監督、11年からはDeNAの初代GMを務めた。