昭和の伝説フィンガー5…ボーカルが語る秘話 ヒットでつかんだ「六本木のビル一棟」相当の大金 全額をアメリカ留学に投じた

『個人授業』(1973)、『恋のダイヤル6700』(1973)、『学園天国』(1974)…1970年代に数々の大ヒットを世に放ったフィンガー5。まだアメリカ統治下だった時代の沖縄から兄妹5人で本土に渡り、そのポップな音楽性とダンスパフォーマンスでトップスターに駆けあがった日本芸能史上の伝説的グループだ。

彼らはどんな思いで栄光の日々を過ごしたのか。そしてグループはなぜ活動停止に至ったのか。フィンガー5の三男、玉元正男さんに訊くロングインタビューの中編。

ーー『個人授業』(1973)はオリコン1位獲得。グループを一躍スターダムに押し上げました。作詞が阿久悠さん、作曲が都倉俊一さん、しかもジャケットイラストは当時『ドカベン』などで人気絶頂の水島新司さん。売れること間違いなしのもの凄いプロデュース体制だと思います。

正男:制作陣からイメージ作りまで全部、ディレクターの井岸義測が手配してくれたんです。鳴かず飛ばずだった僕たちに注目し、ヒットに導いてくれたことは本当に感謝しています。

ーーこれだけR&B的なテイストを打ち出したことは当時の歌謡界では革新的だったのでは?

正男:初めて曲を聴かされた時はブッ飛びましたよ(笑)。当時の歌謡曲にはほとんど興味がなかったので、ああいうサウンドでやれたことにはとても満足していました。レコーディングの時も都倉先生は「好きに歌いなさい」と、僕たちの個性を引き出すようなやり方をとってくれました。

ーー約3カ月後にリリースした『恋のダイヤル6700』(1973)も4週連続オリコン1位の大ヒット。さらに3か月後にリリースした『学園天国』(1974)も1位は逃したものの大ヒットを記録しました。

正男:都倉先生の曲でブレイクした僕たちですが、『恋のダイヤル6700』、『学園天国』の作曲は井上忠夫先生なんです。業界的に変わってると思いませんか?

ーーそうですね。普通なら同じ作家が続けて手がけそうなもんですが…。

正男:売れる前にザ・タイガースとかオックスとかいろんなグループサウンズの前座をやっていたんですよ。ブルーコメッツの前座もしたことがあったので、もしかしたらR&B大好きな井上先生が僕たちのこと面白がって手を上げてくれたんじゃないかなって。関係者も多くが亡くなってるし正確な背景はわからないだけど、ちゃんと僕たちのことを理解している人たちが売り出しに関わってくれたんだなって今になって思いますね。

ーーいきなり売れたことで生活も急変したと思います。

正男:変わりましたね。これまでは遊園地やデパートの屋上で演奏していたのがワンマンコンサートになり、追っかけのファンまでできるんですから。ステージに加えテレビ出演に取材…学校にもできる限り通っていたので、もの凄い忙しさでした。

ーー学校の同級生たちの反応は?

正男:下級生たちは休み時間に教室をのぞきに来たりしたけど、同級生たちはほとんど変わりませんでした。今思えば気をつかって、あえてこれまで通りに接してくれていたんでしょうか。そのおかげで急に売れたけど平常心を保つことが出来たんだと思っています。運動会や修学旅行に参加できなくて寂しい思いもしたんだけど、彼らとは今でもたまに飲みに行ったりするんです。かけがえのない仲間ですよ。

ーー売れたことで天狗になってしまったり、周囲から孤立してしまったという人も多いです。正男さんは周囲に恵まれていたんですね。

正男:そこに関しては親父もすごく厳しかったですから。「お前たちは周りの人たちの応援のおかげで売れているということを忘れないようにしなさい」といつも言われていました。

ーーストレスも多かったと思いますが、兄弟仲はいかがでしたか?

正男:子供なので些細なことから取っ組み合いのケンカをすることもありましたけど、それを何日も引きずったり仕事に持ち込みようなことはありませんでした。そのあたりは長男の一夫がよく指導してくれていたと思っています。

ーーフィンガー5は1975年8月から半年間、日本での活動を休止してアメリカに留学されていますね。

正男:その年の5月にそれまで在籍した市橋プロから独立。ちょうどその頃、晃が変声期になって高音が出なくなってしまったので、それを補うために甥っ子の実を加入させたりと変化の大きな時期でした。フィンガー5では定期的に家族会議をして今後の方針を話し合っていたんだけど、アメリカ行きもそこで決まったんです。親父が「これまでの貯金が1億円くらいある。これは六本木にビルを一棟買うこともできるくらいのお金だけど、お前たちが行きたがっていたアメリカに半年くらい留学することもできる。どっちがいい?」と。僕たちは一も二もなくアメリカ行きを選びました。

ーーちょうど世界的にブラックミュージック、ディスコミュージックが盛り上がってくる時期ですよね。注目しているアーティストはいましたか?

正男:やっぱりグループとしてはジャクソン5が目標ですよね。個人的にはジェームス・ブラウン。日本人がどこまでブラックミュージックを理解できるだろうという不安はあったけど、僕たちは沖縄出身で子供の頃からそういう音楽にばかり親しんできました。アメリカに行けることは楽しみで仕方なかったです。

ーーアメリカではどんな生活を?

正男:ハリウッドで現地の学校に通いながら、空いている時間にはスタジオ練習したりライブを観に行ったり。ラスベガスでジャクソン5の公演があるというので行こうとしたんだけど、途中でガソリンが足りなくなって泣く泣く断念したなんてこともありました。あとはアルバム『ジェット・マシーン』(1976)のレコーディングですね。アレンジを担当したジーン・ペイジはじめ現地の一流のミュージシャンたちを交えたレコーディングで、すごく刺激になりました。サウンドと言いノリと言いミキシングと言い日本と全然違うんです。

ーーやはり日本とアメリカの差は大きかったんですね。

正男:はい、これは音楽的な文化の違いでしょうね。当時の日本の音楽番組だと、バックバンドによっては僕たちの曲をオリジナル通りに演奏してもらえないこともありました。

ーーそのままアメリカで活動したいという気持ちはありませんでしたか?

正男:できればそうしたい気持ちはあるけど、やっぱり僕たちは日本のグループ。待ってくれているファンのためにも予定通り帰らなくてはいけないですよね。でも帰国が近付いた頃、どうしても帰りたくなくて家出したことがありました。結局、怖くなって2日で帰ってくるんですけど(笑)。

◇ ◇

日本での成功でつかんだ財産を惜しみなくアメリカ留学につぎこんだフィンガー5。その成果ははたして?続く後編では帰国後の活動や現在の正男さんたち兄妹の活躍を紹介したい。

玉元正男(たまもと・まさお)プロフィール

歌手。1959年2月2日、沖縄県具志川市(現うるま市)生まれ。幼少期から兄妹でバンド活動を始め、ベース・ボーカルを担当。1970年にベイビー・ブラザーズとしてデビュー。途中フィンガー5に改名し『個人授業』、『恋のダイヤル6700』、『学園天国』など数々のヒット曲を生み出す。1978年のグループ活動停止後も不動産業、内装業などと並行し音楽活動を継続。現在は東京都荒川区町屋でミュージックバー「いちゃりBar」を経営するかたわら定期的にライブ活動をおこなっている。

(まいどなニュース特約・中将 タカノリ)

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