ナベツネ部屋に招いた御客
【12月23日】
読売新聞本社には「主筆室」といういわゆる「ナベツネ部屋」があった。球界のドン、渡辺恒雄が90歳を過ぎても出勤していたこの部屋にかつて招かれた阪神タイガースのトップがいた。
前回の続きを書く。
僕の母親がNHKの編成に身を置いていたことが、実はこの業界で様々なコネクションに繋がっている。新聞、テレビ…なかでも読売グループ幹部との縁で今回の取材の幅が広がったわけだが、さて、要するにナベツネは、いい人だったのか、悪者だったのか。
「野球というのは毎日勝つと思っていたら、しんどいですよ。半分は負けるんだから気楽にやればいいんです。私だって負ければ腹が立つし、勝ったらうれしいが、毎日一喜一憂していたら身が持たないから、すぐに忘れるようにしているんですよ」
滝鼻卓雄が巨人軍のオーナーだった時代、当時読売新聞会長の渡辺は阪神オーナー坂井信也を本社の自室へ招き、そんなふうに説いた。
「巨人と阪神がいいコミュニケーションを取り合って、プロ野球を発展させていかねばなりませんな」
渡辺が阪神トップにこう伝えたのはまだ元気な83歳のころだった。
球界再編騒動の04年、渡辺恒雄-久万俊二郎のホットラインがあった。だが、当時巨人と阪神のオーナーが直接やりとりすることはなく、読売新聞大阪本社の大物、老川祥一(後の巨人軍オーナー)が時おり野田の阪神電鉄本社を訪れ、渡辺の言葉を阪神側へ伝えていた。また、渡辺に意見具申できる読売テレビ会長兼社長(当時)の土井共成も盟友の親睦に一役買っていた。
「ナベツネさんは常々クマさんに気を遣っていた」。そんなふうに聞いたことがある。久万は渡辺にとって東京大学の先輩であり、歳も5つほど上。
久万は渡辺に「言いたいことは言っていた」ため、渡辺はいつも「久万さんは、これでよろしいですか?」と、丁寧に目上を立てていた。久万は「巨人あってのプロ野球、巨人あっての阪神」との認識を崩さなかったが、渡辺も阪神への敬意、「阪神とともに」球界を活性化させる見様を携えていた。
ナベツネの生き様が語られるとき、「ワンマン」「独裁者」と揶揄する者もいれば、そうでない者もいる。
「プロ野球の繁栄を願っていた」。今回取材した読売グループのお偉方は口々にそう言って悼むが、もちろん、立場によって人の見方は変わる。いいも悪いもどっちも本当…としか書けないのだが、僕の関心事は渡辺が阪神にとって「いい人」だったのかどうか。
「何か文句があるのか?若手を育てるには5年はかかるんだよ。だからといって来年負けていいとは言わない」
これは、渡辺が長嶋茂雄に5年契約で新監督を任せた92年オフに発したコメントだ。結局ミスターは93年から9年間で3度のリーグ優勝を達成することになるが、これほどの長期政権はいまのプロ野球ではまずない。
組織運営において本質を外さないトップ。阪神にそんなオーナーが立てばどうなるか。続きは次回。=敬称略=