【番外編】市川月乃助
9月の新橋演舞場と大阪松竹座の「九月新派特別公演」で二代目喜多村緑郎を襲名する市川月乃助。三代目市川猿之助(現・猿翁)の元で修業を重ね、スーパー歌舞伎にも主演するなど、花形俳優として活躍。長身の舞台映えする容姿で、颯爽とした二枚目から色敵まで立役としての力量を見せていた。2011年の新派初出演以降、数々の作品で重要な役を演じ、本年1月に劇団新派に正式入団した。今回、新派の礎を築いた名前を継ぐにあたり、その意気込みや、師匠・市川猿翁への思いを語った。
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師匠には部屋子に入ったころから「段治郎さん(月乃助の前名)は新國劇が似合うね」と言われておりました。「国定忠治とかやったらいいよ」と勧められたこともあり、以来、歌舞伎ほど古くはないけど、日本の古典ともいうべき芝居を見るようになりました。その頃はまさか、新派の芝居を自分がやるとは思ってもいませんでした。
初めて新派に出させていただいたのが2011年の三越劇場の『日本橋』という作品でした。実は歌舞伎の人間が新派に出ると苦労するんです。新派はリアルなんだけど、独特の様式美とセリフ回しが存在している。歌舞伎と新劇のはざまというか、絶妙なさじ加減というか…(波乃)久里子さんも「歌舞伎の人が新派に来ると、どこまでリアルにしていいのかわからずに、セリフをサラサラ言ってしまったりするのよ」とおっしゃっていましたが、まさにその通り。こんな難しい演劇あるんだと、毎日悩んでおりました。
『日本橋』から何作か新派公演に出演し、13年に『婦系図』の早瀬主税をやらせていただいた。そのとき本気で「もう一度やりたい!」と思ったのが、新派に入るきっかけですね。歌舞伎で『勧進帳』の富樫をやらせていただいたときと同じように、早瀬主税に魅力を感じ、この役をもう一度やりたいという気持ちが芽生え、新派に骨を埋めたい気持ちが沸き起こりました。
師匠に思いを伝えたときには、すごく喜んでいただき「よく言ってくれた。新派に行っても、私の弟子に変わりないから」と、激励の言葉もいただきました。四代目が猿之助の名前を継がれ、師匠の直系である政明さんが歌舞伎の世界に入り團子を名乗られ、一門の部屋子として肩の荷を下ろすとともに、私は師匠からいただいた精神をまた別の場所で発揮する…これも弟子としてのあるべき道の一つなんじゃないかなと。
新派には移りましたが、もちろんずっと師匠の弟子です。師匠の弟子として恥ずかしくない役者にならねばと思っております。決意してから劇団新派への入団まで時間もいただいたので、自分の中では覚悟はできました。歌舞伎俳優・市川月乃助として十分やるべきことはやったという思いもあります。
そして9月にはいよいよ「喜多村緑郎」の名跡を二代目として襲名します。先代は新派の基礎を作られた方。大きな名前ですし、お話を頂いたときは予想もしていなかったのでビックリして言葉が出ませんでした。帰宅して先代のことを調べたら、それから2日後がご命日だったので、お墓参りに行きました。
師匠に襲名のことをご報告に伺うと、すごく喜んで下さって「その名前があった!」と。子どものころにご一緒したことがあるそうです。久里子さんのお父様で先代の勘三郎さんとも仲が良かったそうで、いろいろ初代の話を教えていただきました。ものすごく芝居に対して熱心で、工夫を凝らしていたとか。その熱心さに先代の勘三郎さんも驚いたことがあったそうです。
そんな卓越した方の名前を継ぐ意味はなんだろう…そう考えたとき、師匠の精神を受け継ぐのと同じことなんだと思い至りました。先代は歌舞伎に対しての敬愛を持って、旧派(歌舞伎)に対しての新派に挑まれていたと伺っています。僕も歌舞伎出身。これからも先代同様、歌舞伎に対する敬愛を持ち続けることが、喜多村緑郎の精神なんじゃないかなと思っております。
歌舞伎は約400年の歴史の中で培われた素晴らしい舞台。新派も一致団結して、歌舞伎に負けないようなものにしていきたい。先人が残して下さった作品の洗い直しや、埋もれている作品の掘り起こしもしなければいけない。僕の場合は新國劇もあるし翻訳劇もやってみたい。歌舞伎の大きな違いは、新派には演出部があって、役者とはまた違う立場で芝居を見る人たちがいることではないでしょうか。例えば、僕に合わせたセリフの芝居を作ってくれたりする。そこが強みでもある。さらには師匠がスーパー歌舞伎を作られたように、新派でも現代の技術を駆使し、新作にもチャレンジしていかないといけない。やらなければいけないことは多いですが、師匠に数十年遅れましたが僕も新派で“創造”していきたいと思っています。
もうすぐ襲名公演が始まります。「市川月乃助」という名前との別れが寂しい反面、素晴らしく大きな「喜多村緑郎」という名前を名乗らせていただき、本当にありがたい。これからも後ろを振り返らず、進んでいく覚悟です。
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市川月乃助 1969年1月6日、新潟県生まれ。88年国立劇場第九期歌舞伎俳優研修修了。同年4月本名の神田和幸で歌舞伎座『忠臣蔵』三段目の本蔵家来ほかで初舞台。7月市川段四郎に入門、10月から市川段治郎を名乗る。94年3月、三代目市川猿之助(現・猿翁)の部屋子となる。2000年4・5月新橋演舞場『新・三国志』の程昱で名題昇進。04年3月、猿之助(現・猿翁)の代役としてスーパー歌舞伎『新・三国志III』の謳凌、関羽を勤める。05年『ヤマトタケル』でタケル・タケヒコをダブルキャストで主演。11年12月二代目市川月乃助と改名。11年の『日本橋』以降、数々の新派の舞台に出演し、16年1月に正式入団。9月に二代目喜多村緑郎を襲名。妻は女優で元宝塚歌劇団宙組トップスター貴城けい。
初代・喜多村緑郎(1871年7月23日~1961年5月16日)本名、喜多村六郎。日本橋橘町の薬種問屋に生まれる。写実的な演技の創造につとめ、新演劇の基礎を作り、新派劇の性格づけを明らかにした。牽引車的役割を果たし、新派の女方芸を確立した。歌舞伎に傾倒し、その演出法を新派に取り入れるなどして、今日残っている新派古典の名作の演出は、そのほとんどが喜多村が行ったものである。1948年芸術院会員、55年重要無形文化財保持者(人間国宝)、同年文化功労者に選ばれた。享年91歳。