陰のオーナーとの電話 1985年キャンプ中の順位予想に「記者個人の見解ですね」【12】
岡田監督、ようやってますやん。何の文句もありまへん。交流戦までの62試合を終えて38勝24敗2分け。2位の横浜に2・5ゲーム差をつけて、タイガースが堂々の首位でっせ。ええとこも悪いとこも出ました。それがよろしいやん-。
天国から上岡龍太郎さんの声が聞こえてくる。「わたしが阪神タイガース陰のオーナー上岡龍太郎です」を枕詞にしていた時期があった。「タイガースは生え抜きの選手に冷たい」が口癖で村山、江夏、田淵への対応に不満を漏らし、掛布の退団後、背番号31を巨人から来た広沢に付けさせたことで「もうオーナーは辞めます」と宣言した。
阪神という球団ではなく、阪神で育った選手に愛情を注いだ。もちろん岡田彰布も例外ではない。監督として再び指揮を執り、首位にいることを喜んでいるのは間違いない。
わたしが初めて上岡さんと話したのは、1985年の春、安芸キャンプの最中だった。それ以前から上岡さんには、デイリーにコラムを書いてもらっていた。その縁もあって、安芸にいる私のもとにデスクから連絡があった。
「上岡さんから電話があるから、タイガースのキャンプ情報を話すように」との指令だった。上岡さんはKBS京都でタイガースの情報番組の司会をしていた。駆け出しトラ番のわたしは安芸の定宿・小松旅館の掘りごたつに足を突っ込んで黒電話の前に座った。
小松旅館はトラ番の定宿で、各社ごとに一部屋5、6人が雑魚寝していた。今なら考えられない共同生活。その代わり宿代は一泊二食付きで4500円。洗濯もしてくれた。そんな時代で、選手もやっと「東陽館」という旅館住まいから手結山観光ホテル、ホテルタマイと変わった。
田舎の漁師町に初めてできたビジネスホテルがタマイ。地元の人にとっては冠婚葬祭に使える初めての上等なホテルだった。阪神の監督が旅館時代の感覚で、上階にあるサウナを使いパンツ一丁でエレベーターに乗った。
途中階で地元の結婚式に出席する人たちが乗り込んできた。礼服の人に囲まれて「すんまへんなあ」と裸の監督はバスタオルで顔を隠した…。朝の体操を一階の駐車場でする。狭くて天井がある。毎朝応援団が来る。どん、どん、どんと目の前で太鼓をたたいて「オカダ、オカダ、オッカッダアー」と叫ぶ。音が反響し、頭が痛くなるので体操は中止になった。播州岡田会はもう来なくなった。
黒電話が鳴って、しばらく上岡さんとキャンプの様子を話した。最後に「順位予想をしてください」と言われた。初めてのキャンプ取材で右も左も分からない。「3位」と当たり障りのない答えをした。「それはデイリースポーツではなく、改発記者個人の見解ですね」と言われた。その年阪神は優勝、初めての日本一になった。
岡田監督は上岡さんの訃報に「そんなん知るも知らんも…。よっさんのゴルフにも来てたやん」と答えている。まだ売れる前のさんま、紳助といった上岡さんを慕う若手芸人たちを「おれが面倒見てたんやん」と岡田監督が笑いながら、選手時代の付き合いを振り返ったことがある。
「よっさんのゴルフ」に上岡さんが来たときにはわたしと岡田監督、近鉄の鈴木啓示さんとで上岡さんとラウンドした。上岡さんはすでに引退されていた。「デイリーでもう一度、回顧録のようなものを」とお願いしたが「やりません」と断られた。そして意外なことを言われた。
(特別顧問・改発博明)
◇改発 博明(かいはつ・ひろあき)デイリースポーツ特別顧問。1957年生まれ、兵庫県出身。80年にデイリースポーツに入社し、85年の阪神日本一をトラ番として取材。報道部長、編集局長を経て2016年から株式会社デイリースポーツ代表取締役社長を務め、今年2月に退任した。