岡田監督おめでとう、そしてありがとう【25=最終回】
岡田彰布監督は、世界一の阪神タイガースファンだ。人目もはばからず泣いたことが、これまでに2度ある。1度目は阪神での現役引退、甲子園での最後の試合だ。2度目は前回の阪神監督最終戦、プレーオフで敗れた京セラドームだった。
いずれも心残りがあった。完全燃焼できなかった。阪神タイガースへの思いが、ずっと消えることはなかった。いまタイガースのユニホームで宙を舞いながら、同時に阪神タイガースの優勝を誰よりも喜んでいる。
岡田監督に送る言葉は「おめでとう」がふさわしい。そして「ありがとう」を付け加えたい。
トラ番記者として最初に2人だけで話したのは1984年、北陸遠征に向かう「雷鳥」の食堂車だった。本人は覚えていないだろうが、入団前に小津正次郎球団社長から「三塁を確約する」と言われたとか、秘話も明かしてくれた。
歳が近いこともあって、その後も人生の節目には必ず、岡田監督の存在があった。2016年にデイリーの社長になったときも、一番喜んでくれた。「改発さんが社長やで」とほんまにうれしそうに、岡田さんがあちこちで言っていたと聞かされた。
長男の陽集さんの結婚式に、わたしを招待してくれた。本人中心の集まりで、父の岡田監督は野球関係者らには声を掛けていない。「改発さんだけ呼ぶから」と親族席に座らせてもらった。喜怒哀楽は自分から、大げさに見せようとはしない。どこかから必ず、優しさが伝わってくる。
ユニホームを脱いでいた期間は、行く先々で「阪神の監督してください」と声を掛けられた。「そんなん、俺に言われてもなあ」といつも苦笑いしていた。
真弓、和田、金本、矢野と阪神の監督は世代交代した。65歳になった岡田監督が再び監督になるのは正直、もう難しいのかもとわたしは感じていた。
いくつかのタイミングが重なった。決定的だったのは阪急阪神ホールディングス・角和夫会長だ。早大の先輩で、ずっと岡田監督を気に掛けていた。ノーベル賞の本庶佑先生の存在も大きい。
「ノーベル賞のときに乗せられて、タイガースへのアドバイスはと問われて、監督を代えることと言ったら違う人になってしまった。岡田さんにという意味だったのに」と本人の口から聞いた。吉田義男さんも含めたゴルフ仲間で、今回の岡田監督誕生につながった。
「角会長は岡田さんの著書を読んでこれは、もう一度阪神の監督をやってもらわないといけないと、決めていた」と球団関係者から聞いた。著書とは2009年11月20日にベースボール・マガジン社から発行された「オリの中の虎」である。
「オリの中の虎」は「愛するタイガースへ最後に吼える」とサブタイトルにある。オリックス監督に決まった直後に書かれた。オリックスの監督をするが心の中は虎のまま、タイガースへの思いが消えることはないという意味だ。
岡田彰布著とあるが、実際には私が岡田監督を取材して書いた。聞き書きのスタイルだ。この本が角会長に今回の岡田監督誕生を、決意させた要因の一つだとすれば、わたしも微力ながら優勝を裏で支えたことになる。
岡田監督とは家族ぐるみの付き合いだった。お互いの自宅にも行き来した。陽集さんとわたしの娘たちで遊園地に行ったこともある。皆で焼き肉も食べた。娘のバイト先の居酒屋に、足を運んでくれたこともあった。
わたしは4年半前に61歳の妻をがんで亡くした。真っ先に岡田監督に知らせた。「えっ…」と絶句したままだった。何かと心配してくれた。ゴルフクラブを握る気もなくなったわたしを、あえてラウンドに誘ってくれた。「ちょっとでも元気出してくれればなあ」と周りに漏らしていた。だから「おめでとう、そしてありがとう」と伝えたい。
3月の開幕からスタートした「帰ってきた とらのしっぽ」は、岡田監督にも「優勝するまで」と約束した。今回が最終回です。ありがとうございました。(特別顧問・改発博明)=終わり=